日韓市民社会フォーラム2005(8月19日@ソウル)報告の概要
市民憲法制定と北東アジア平和

江橋 崇(法政大学教授/平和フォーラム代表)

 今日、この場で報告をする機会を与えてくださったフォーラム主催者に心からの感謝を表したいと思う。今回、わたしたちは、このすばらしい会場で、こうして第三回の日韓市民社会フォーラムが開催できた。準備にあたったイジョンオク氏、三宅弘氏を中心とする韓国、日本双方の委員会にも厚く感謝したい。また、この場に、中国の市民社会からの友人を迎えることができて、大変に嬉しく思う。
 さて、思い起こせば、今から十年前、第二次大戦終結五十周年の八月十五日に、わたしは、日韓の友人たちとともに、ソウルに滞在していた。旧朝鮮総督府の建物の解体をおこなう光復節の式典を見ることと、翌日からのアジア太平洋市民社会フォーラムに参加することが滞在の目的であった。あの日から十年、わたしたちは、おのおのの持ち場で市民社会の発展に努力するとともに、日韓のフォーラムを重ねて相互理解と友情を確認しあってきた。そしていま、この十年間に成し遂げてきた成果を考えると、韓国市民社会の大きな躍進は、日本市民社会の成果をはるかにしのいでいる。フォーラムの呼びかけ文で、誇り高く「市民の“力”で歴史のながれを変えた”歴史づくり“の現場を私たちは抱えている」と書かれた韓国市民社会の友人に改めて敬意を表すとともに、日本市民社会の停滞ないし後退について、自らの努力の至らなさを恥じるものである。
 わたしは、この第二次大戦終結六十周年の時期に、北東アジア市民社会として、あらためて、この地域における平和への共通の決意を示し、次世代の若者たちに戦争と侵略の悲惨な実情とその責任を語り伝えるとともに、平和こそが二十一世紀の北東アジアにおける安定と友好の基本的な条件であるというメッセージを広く発信したいと考えている。そういう気持ちで、与えられた課題に沿って報告をしたい。

(1) 日本の憲法問題は北東アジア市民社会の「共通の正当な関心事(a matter of common due concern)」である。

 日本では、今、一九四七年憲法の改正が問題になっている。わたしは、日本によい憲法が存在することは、韓国によい憲法があり、中国によい憲法があるのと同様に、北東アジア地域の国際的な資産であると思っている。今回の憲法改正の盛り上がりの中で、日本にそういう市民主導の憲法ができて、そのもとで政治が営まれるとするならば、北東アジアの平和、安定、友好を促進することになる。わたしたちは、二〇〇四年四月に多くの友人と市民立憲フォーラムを立ち上げて、市民憲法制定の可能性について議論を深めてきた。わたしは、日本にも、市民憲法の成立する可能性があると思っている。だから、北東アジアの市民社会は、日本における憲法改正問題について、関心を持ち、意見を述べ、批判も提案もして、議論に参加する資格を持っているのだと思う。
 一九六〇年代から九〇年代にかけて、日本の市民社会は、北東アジアの諸国の憲法や政治のあり方について、多くのことを語ってきた。関心を持ち、意見を述べ、批判も提案もしてきた。北東アジアの平和の確立に向けて、核問題も含めて各国の平和政策のあり方を問題にしてきた。各国の政府の強権的な専制政治を非難し、光州事件であれ、天安門事件であれ、脱北者問題であれ、市民に対する暴力の行使と市民の権利の侵害を非難し、逆に、自由と民主の市民の運動を支援してきた。今日では、北朝鮮の非核化の推進が大きな問題となっている。この地域での民主化と人々の市民の権利の回復、そして、社会の安定と発展をどう実現していくのかについても、多くの議論がある。
 一九八〇年代以降、地球社会では、どこでも、こうした国境を越えた市民社会の行動が際立った。南アフリカのアパルトヘイト体制に対して、地球市民社会は、その体制がアフリカ南部地域の平和と人々の市民の権利を深刻に阻害すると激しく非難して、厳しい制裁措置を要求し、国連や各国政府の同意と行動を取り付けることを推進してきた。そこで使われたのが「一国における大規模な人権侵害は、その地域の平和に対する脅威であり、それゆえに国際社会の共通の正当な関心事(a  matter of common due concern)となる」という言葉である。どこの国の政府であっても、圧制や市民の権利抑圧に対する外部からの批判を、内政事項であるという弁明で封殺することはできないし、自らが行っていることの責任を逃れることもできないのである。
 地球市民社会は、この考え方を、イスラエルによるパレスチナの占領にもぶつけた。アフリカでの強権的な独裁者の圧制も非難した。ソ連社会主義圏の政治的抑圧と戦う人々の支援にも使った。アジアでは、フィリピンのマルコス政権、ミャンマーの軍事政権、インドネシアのスハルト開発独裁政権なども、みな、「共通の正当な関心事」としての国際世論の批判にさらされてきた。北東アジアで起きたことはこれらと同じことだったのである。
 二十一世紀の地球では、国際化はさらに進行している。この時代には、どの国の国内政治であっても国際政治上の大きな意味を持ってしまう。どの国の経済の動きも、世界の市場主義経済に大きく作用してしまう。そして、文化やスポーツの面でも、韓流ブームやサッカーのワールドカップの大騒ぎのように、国境を超えた地域レベルで問題が動いている。
 こういう時代には、市民社会もまた、国境の壁を越えて地域の規模で連携するようになる。そして、日本の市民社会が、これまで北東アジアの国々の内部の問題について、それが平和の問題であり、人々の自決の問題であり、市民の権利の問題であるがゆえに積極的に発言をしてきたように、北東アジアの市民社会は、利害関係者(ステイクホルダー)として、日本の憲法と政治のあり方について発言することができるし、発言してもらいたいのである。
 今の日本には、小泉首相の靖国神社参拝問題をめぐって、隣国からの批判を「内政干渉」と反発するナショナリズムの勢力が強い。小泉首相自身が、そう考えている。この勢力は、同時に、日本の憲法改正問題を、日本の内政問題として扱っている。憲法を、国内政治の体制を強固にする道具、さらに、隣国と対決する国家主義的な精神基盤の確保の道具として考えている。日本は、こういう、内向きで、隣人に対する敵意をむき出しにしたような態度で憲法改正問題を扱ってはならない。
 わたしは、今日、二十一世紀の北東アジアにあって、日本の市民社会は、市民憲法を作る作業の一環として、北東アジアに共通する平和、民主、市民の権利の価値が日本の憲法の中で確保できるように、憲法問題について誤解のないように近隣の友人たちに説明し、そのあり方についての批判に謙虚に心を開き、それを真剣に聞き、友人としての助言や支援を受け止めるべきだと考えている。この共同作業をつうじて、日本の憲法と日本の政治体制が、北東アジアの平和、安定、友好の資産となり、拠点となることが望ましい。
 「日本の憲法問題は北東アジア市民社会の“共通の正当な関心事”である」。これが、この報告でわたしが提示する言葉である。

(2)北東アジア共通の平和、民主、市民の権利の価値を実現するものとして各国の憲法体制の改革を考えたい。

 それならば、どうすれば、日本の憲法改正問題を、北東アジアの平和構築のプロセスに組み込むことはできるのか。新しい日本の憲法は、どのように、北東アジア共通の資産になりうるのか。もし、それができないのであれば、わたしたちは、どのような思想的な立場から、北朝鮮に対して、その憲法と政治体制を、北東アジア共通の平和と安定と友好の拠点になるように自ら改革することを求めることができるのか。自分が、自国の憲法に関してできないことを、どうして、他の国の人々に求めることができるのか。
 わたしは、北朝鮮の民主主義と市民の権利の確保について無関心ではない。脱北者の自立の支援も必要であると思う。そして、こういうわたしの関心が、北朝鮮に対する不当な干渉にならずに、また、敵対にならないようにあり続ける道は、北東アジアの政治共同体の形成を遠い理想としながらも、お互いに心を開いて、お互いが安全に存在し、幸福に生活することが、この地域のもっとも豊かな共通の資源であることを認めあい、それゆえに、平和、民主、市民の権利に関する誤った政治の方向性に対しては、鋭いが、しかし心のこもった相互批判と相互理解を繰り返すことであると思う。
 わたしたちは、北朝鮮との間に友人としての交流が途絶えないように努力してきた。各種の緊急支援も行ってきた。この国の人々との間には、戦争と植民地支配の責任に関して大きな意見の相違がある。また、工作船の侵入、拉致、覚せい剤の密輸、通貨偽造など、ナショナリストたちが好んで言い立てる多くの問題がある。かつて帰国運動で北に渡った十万人以上の在日韓国・朝鮮人とその家族の問題もある。わたしたちは、大きな困難に直面している。そして、そうであるがゆえに、この十年間、よりいっそう大きな困難を克服して北朝鮮の人々との友好的な関係の維持・発展に努力されてきた韓国市民社会の行動に教えられるところが大きいと思っている。
 わたしは、心の中にこういう思いを持って、北東アジアの市民社会の友人に、各国の憲法において、北東アジア地域に共通する平和、民主、市民の権利の価値が盛り込まれるように、市民社会が相互に支援しあうことを提案したい。そして、今は、日本が外部からの助言と支援を必要としているときである。こういう意味合いにおいて、わたしは、北東アジア市民社会が共同して、日本の憲法問題について理解を深め、発言を強めることを期待している。今回のわたしの報告と討論を通じて、日韓中の市民社会の相互理解が進展し、日本の国内で生じている問題に対する友人たちからの適切な批判と助言が得られれば幸いである。
 わたしたちは、北東アジア市民社会の立場から、この地域のさまざまな国や地域の憲法について議論しあおう。その最初が日本の憲法問題であっていい。これが、この報告でわたしが提示する、二番目の言葉である。

(3)日本の憲法改正問題は変化しつつある。

 日本では、かねてからの憲法改正問題が、二十一世紀に入って、大きく変貌している。一般に、二十一世紀の最初の十年は、二十世紀の日本的なものが急激に崩壊する十年といわれているが、政府、市場、市民社会のいずれもが大きく変化している。そうした中では憲法改正問題も例外ではない。この報告では、この最近の変化を隣国の友人たちに伝えたい。
 ここで具体的な内容の説明に入る前に指摘しておきたいのは、憲法問題をめぐる政治的な磁場の変化である。かつて、日本では、改憲であれ、護憲であれ、憲法問題に触れることは、選挙において多くの支持者を獲得する旗印であった。実際に、そういう磁場が形成され、多くの投票が集められた。ところが、最近の衆議院議員選挙、参議院議員選挙では、憲法改正問題という争点は投票を集める力を失い、原理主義的な憲法改正推進派(自民党タカ派)も原理的な憲法擁護派(社民党、共産党)もともに敗れた。改憲派も、護憲派も、支持基盤の中心は高齢化が著しく、その人々の選挙への関心の低下や棄権行動が著しい。それが、この、左右両派の同時的な敗北という選挙結果を生んでいるのである。
 最近、テレビなどが報じる国会議員たちの憲法議論を見ていると、自民党内部での原理的な改憲論は明らかに弱体化している。それは、憲法改正が具体的な政治の課題になるにつれて、現在の憲法に定められている改正手続きはとてもバリアが高くて、改正の実現は容易ではないことが自覚されるようになってきたからである。与野党対決型の憲法改正作業を進めれば、自民党の党内合意すら得られにくい状況にあり、まして、衆議院、参議院の双方で三分の二以上の賛成を得ておこなう「国会の発議」などは到底実現できるはずがない。そこで、議論の傾向はすでに、与野党対決型ではなく、与野党合意型の憲法改正の方向に走り始めている。衆参両院の憲法問題調査会の報告書提出、衆議院の解散で先延ばしになった調査会の再編成、再出発は、原理的で全面的な憲法改正ではなく、部分的な増補型の憲法改正を念頭に置いておこなわれつつある。憲法改正の手続きの整備、つまり国会法の改正と国民投票法の制定も同じように与野党協調型でおこなわれるであろう。
 これは、言い方を変えれば、日本の憲法問題が、わたしたちの考え、提起してきた方向にあるということでもある。わたしは、一九九〇年代の初めから、日本は、市民社会の広い合意をもとにして、穏やかで、小規模の憲法改正を行うべきであることを主張してきた。当時強硬に全面改憲を主張していた読売新聞社や自民党の小沢幹事長たちに穏当な改憲を説いたこともあるし、護憲派に「平常心の憲法学」を説いたこともある。平和フォーラムの代表になってからも、プラス改憲、増補型(amendments)憲法改正を説いた。ここで貫いてきた主張は、憲法は主権者である市民の主張を元にすべきであり、この三十年間の日本市民社会の発達を基礎に、そこで広く合意されてきた平和、民主、市民の権利の価値を日本国憲法に加えるような改正になるべきであるということであった。二〇〇一年四月四日、参議院憲法調査会公述人陳述においても、「国民主権とは市民が主役の政治を確立することである」と題して、この趣旨の発言を行った。
 今、民主党で憲法問題を中心になって考えている仙谷政調会長、枝野憲法調査会会長、江田参議院議員会長は、いずれも、与野党合意の穏やかな改憲を主張しており、公明党の太田憲法調査会会長、赤松同事務局長も、同党の掲げてきた穏やかな加憲の主張を堅持している。そして、この両党の態度が崩れない限り、これ以外の憲法改正は不可能なのである。憲法改正が現実政治の課題であり続けるならば、結局は、自民党も、また社民党、共産党も、この線に接近してくることになろう。
 二十世紀の日本社会では、憲法改正問題は、戦後日本社会の基本的な価値が否定されるピンチと考えられてきた。だが、すでに時代が変わり、社会が変わってきた。とくにこの三十年間、日本の市民社会は、政治家たちももはや無視できない成果を作ってきた。市民社会の努力なしには、高度経済成長政策の後始末はつかなかったであろう。地方自治の振興による政治的な閉塞感からの解放もなかったであろう。環境問題、都市問題、市民の権利問題などへの取り組みもなかったであろう。今、わたしは、こうしてこの三十年間に形作ってきた価値が、憲法典の中に入り込むチャンスがあると思っている。
 平和主義については、一九六五年の日韓条約締結、一九七二年の日中国交回復に際して日本が誓った「アジア不戦」を基礎にして、北東アジアでの反戦と友好の価値を憲法に盛り込むチャンスがあると思う。民主主義についていえば、「官僚主権」とまでいわれるような「官」の優越的支配をどう克服して「民」の政治を実現するのか、衆参両院に足場を置いた議院内閣制を維持するのかそれとも首相公選制に切り替えるのか、地方分権の価値をどこまで盛り込むのかなど、多くの課題で市民社会の発言が聞かれるチャンスがある。基本的人権の尊重については、この三〇年間に市民社会主導で作ってきた新しい市民の権利である知る権利、プライバシー、環境権、女性の権利、子どもの権利、外国人の権利、病者・障害者の権利などから、死にゆく者の権利、出生前の胎児の権利、科学技術の進展と市民の権利などまで、市民社会が問題を提起してきた価値を憲法に定着させるチャンスがある。また、国際人権保障や、司法的救済、市民的勧解制度(ADR)による救済など、市民の権利保障の手法についても、市民社会は多くのことを主張してきた。これも受け入れられるチャンスがある。
 こういう諸価値を実現して、市民憲法を作り出してゆくには、これから、日本の内外での多くの努力の結集が必要である。その中には、地域内の一国の憲法として地域の人々から求められる日本の憲法はどのようなものなのかを明らかにする作業もある。そのためには、北東アジア市民社会からの発言がもっとも必要である。わたしは、こういう発言を心から期待している。今回のフォーラムが、そういう場のひとつになれば、本当に嬉しいことである。
 日本の憲法改正問題は大きく変化している。私は、それを、北東アジア市民社会の声を基にした、北東アジア市民社会のための、日本の市民憲法の作成にしてゆきたい。それは、現行の日本国憲法を基礎に、時代と社会の変化の中で明らかになった問題点や、追加が必要になった部分の増補という手法で行われるべきものである。わたしは、こうして作られる憲法が、日本の市民社会と、北東アジアの他の国々や地域の市民社会との間の約束となり、北東アジアで平和、自立、市民の権利が確保される足場になることを願っている。
 こういう展望が開けたとき、人々は、日本政府の問題行動と、韓中両国市民による、反日感情をむき出しにしたデモ、投石、商店襲撃、サイバー攻撃、日本商品不買運動などの応酬による緊張の激化に代わる、新しい展望を持ちうるのではないか。
 北東アジアの市民社会は、日本国憲法の改正への関心を積極的に示してほしい。これが、この報告で提起する、三つ目の言葉である。

(4)日本の憲法改正問題を北東アジアの市民社会に開く具体的な方法を考える。

 わたしたちは、まだとても非力である。また、これまで、できることでしてこなかったことも多い。ここでは、そうした遅れを取り戻すためにも、今のわたしたちにできることを考えてみたい。
@ 日本国憲法その他重要文章のハングル、中国語訳の提供
 日本国憲法は、公式に外国語に訳されたことがない。世に英訳版日本国憲法として出回っているものは、一九四六年の春にGHQが日本側に示した英文の憲法草案が基になっており、日本側がその後の帝国議会での審議などで修正した部分について、対応する部分の英語を少し手直ししたものである。これは、英語原文といったほうがよいものであり、日本語の日本国憲法の英語訳と呼ぶのは正確でない。
 また、日本国憲法には、GHQ草案を日本文に翻訳するときに生じたいくつかの誤訳、曲訳があるので、英語訳日本国憲法の英文には、日本国憲法の日本文と一致しない点がある。さらに、日本側の修正部分の英訳にも問題がある。したがって、英訳版日本国憲法といっても、日本文の日本国憲法のピッタリとした英語訳とはいいにくい。
 日本国憲法は、英語以外の国際語、とくに、国連で公用語とされていたフランス語、ロシア語、中国語への公式の翻訳はなされなかった。そのほかに、スペイン語、アラビア語などへの翻訳もなされていない。簡単にいえば、日本国憲法は、英語版を通じて国際社会に向けて発信されたとしても、英語以外の言葉できちんと発信されていないのである。英語が理解できない人々には日本国憲法の内容は伝わらない。
 残念なことに、今日でも、中国語版、ハングル版の日本国憲法はない。インターネットで検索してみても、わずかに、法学館憲法研究所に、伊藤塾仮訳というハングル版があるだけである。日本の国にとっても、日本の市民社会にとっても恥ずかしいことに、信頼できるハングル版の日本国憲法は、韓国の国会図書館のHPにある。この図書館には、日本地方自治関連法令集という資料集があり、そこに収められているのである。
 さらに問題なのは、中国語版の日本国憲法である。インターネットでは、日本国内で、これを見つけ出すことは困難である。伊藤塾仮訳もない。中国語版は、中華民国(台湾)総統府の憲法改造組織のHPにあるだけである。これが現状である。わたしたちは、この貧しい状態を何とかしなければいけない。北東アジアの市民社会に日本の憲法改正問題への取組を要請するのであれば、最低限、憲法のハングル版、中国語版は用意しなければなるまい。
 だが、残念なことに、今のわたしたちには、それを実行する力がない。憲法の外国語訳は、相当に慎重に扱うべき課題である。時間と費用をかけて、きちんと訳さなければならない。一部の人間の市民訳や仮訳には疑問になる訳が多い。以前に、GHQ草案をもう一度日本語に翻訳しなおそうという書籍が出版されたことがある。その意図はよいのだが、実現できたものはひどい翻訳で、たとえば憲法第十五条のcivil  servant(公務員)を選ぶ権利を、地方公務員を選ぶ権利と訳していたのには驚いた。こういう問題はいつでも生じるので、信頼できる翻訳には、思い切った時間と手間をかける必要があるのである。
 そこで、非力なわたしたちとしては、とりあえずは、市民立憲フォーラムのHPに、この、韓国国会図書館、中華民国(台湾)総統府の資料の所在を示して、それに容易にアクセスできるようにしたい。いずれ将来には、日本国内でも、日本国憲法の各国語版ができるであろう。それまでのつなぎである。
A ハングル、中国語による、憲法改正問題の客観的な報道
 今、日本では、いくつかのHPで、憲法改正問題に関する重要な情報や賛否のさまざまな意見を、比較的客観的に、公平に取り上げて掲載している。だが、それらは、いずれも、ハングルにも、中国語にも対応していない。日本からの発信は決定的に不足しているのである。これでは、北東アジア市民社会は、日本の市民社会の一部から流出する偏った情報だけにさらされることになる。こうした偏りがいかに議論をゆがめてしまうかは、これまでも何度も経験してきたことである。それどころか、今日では、歪んだ情報を提供されて、日本の問題に関する理解が不十分なままで反日行動に出る北東アジアの市民が少なくない。
 今、わたしたちにできることは、情報の見出し程度のものであろうが、きちんとして報道者の姿勢を持って、それにハングルや中国語を併記することである。非力なわたしたちであるので、この点については、わたしのかかわっている日本最大の平和運動である平和フォーラムに相談して、そこのHPにこういう改善ができないか、検討してみたい。そして、もしそれができたら、市民立憲フォーラムのHPとのリンクも強めて、発信力を強めたい。
B 北東アジア市民社会からの声の募集。
 現状では、北東アジア市民社会から、日本国憲法の改正について意見を出そうとしても、それを日本側で受け止め、検討し、議論する場がない。これは問題である。わたしは、さらに、最近、中国南京市の南京大虐殺記念館(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館)のHPを見て驚いた。そこには、「網上祭尊」や「献花留言」というページができており、犠牲者を悼む人は、画面上の指示に従って写真をクリックして、献花する花や奉納する音楽の種類を選び、中国語か英語であるが、言葉を添えて意見を発信するようになっている。既に多数の意見が寄せられている。
 これにヒントを得て言えば、市民立憲フォーラムなどのHPで、日本国憲法の「前文」「天皇」「戦争の放棄」「国民の権利及び義務」「国会」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」「改正」「最高法規」「補則」がいずれもイラスト化されていて、そのいずれかをクリックして、その章に関する意見をハングルや中国語で書くというページが開設されることが望ましかろう。これには、複数の言葉をミックスするという通信の技術的な問題と、日本語に翻訳する際の適正な翻訳文の確保という問題がある。日本の国内外からの妨害も予想されるので、どうすれば妨害を排除して建設的な議論がおこなえるのかも検討しなければならない。したがって、システムの設計にもその運営にも時間と費用のかかることになるであろうが、検討してみるべきであろう。
 これに比べると簡単なのが、これまで、日本の国会での憲法改正問題の審議において、北東アジア市民社会の人々の主張がどのように提示されているのかを検証することである。衆参両院の憲法調査会には、日本語の話せる外国人が何人か呼ばれて意見を述べている。これらについて、市民立憲フォーラムなどのHP上で、意見を紹介し、批評を募集することが望ましい。また、これまでも、地域の平和や交流については、日本の市民社会は、北東アジアの著名な指導者から意見を聞いている。これを拡大して、憲法改正の問題に関する北東アジア賢人会議の開催ができたらすばらしいと思う。現状では、平和フォーラムが毎年開催している護憲大会等に、個別に講師として招聘している。二〇〇四年の秋には、中国社会科学院教授の金熙徳氏、韓国聖公会大学教授の権赫泰氏が参加している。この招聘枠を拡大して、複数の報告者の間での真剣な議論が続けられるとよい。
 ここまで大規模なものでなくとも、日本で日本の憲法問題を研究する北東アジアからの留学生の意見を聞く機会があってもよい。そりあえず、日本国内の主要大学の大学院で、憲法を研究する留学生の在籍状況と、これまでの論文を調査し手何らかの形で公表したい。留学生自身の研究会が立ち上がるようであれば、これもすばらしい。
 こういう発信を通じて、北東アジア各国の憲法体制は、どの国の場合でも、この地域の市民社会の「正当な共通の関心事項」であり、日本国憲法も例外ではないことを強くアピールして、各国、各地域らの市民社会からの積極的な発言、提案を待ちたい。
C 北東アジア市民社会による、日本の憲法のエンドース
 これまで、日本では、憲法が制定されるときに、それが国外でどのように受け止められているのかを公式に調べている。明治憲法の場合には、憲法制定にかかわった金子堅太郎を欧米に派遣し、若干の政治家や各国の憲法学者に意見を聞いている(金子堅太郎『憲法制定と欧米人の評価』)。そのあり様は、学生ができあがった作品について先生の講評を求めるような雰囲気である。日本国憲法の場合は、国外との往来が禁止されていた時期であるので、ソ連の対日関係者の感想や批判を経典のように紹介されている日本共産党を別にすれば、ほとんどアメリカの新聞、雑誌などに現れた評価だけが集められた(貴族院事務局調査部『憲法改正に関する緒論輯録』)。そこには、日本にやってきた占領軍関係者の声も入っている。当時の日本にとっては、国外の国際社会とは、即ちアメリカのことだった事情を反映して、こちらのあり様もまた、大人の採点を受ける子どもという感じである。
 この二度の体験において、北東アジアについていえば、そもそも日本の憲法の内容も紹介されていなかったのであるから、そこからの感想や批評があるはずもなかった。アジアの新聞では、東京特派員からの通信がベタ記事に近い扱いで掲載されているだけである。つまり、日本国憲法は、もともとは、アジア向けのものではなかったのである。北東アジアの市民社会のよく知らない憲法であったのである。
 わたしたちは、二十一世紀において、もし、日本の憲法が増補され改正されるのであれば、そのときには、北東アジア市民社会においても、それに向けた何らかの意思表示がされることを期待したい。平和、自立、市民の権利を基礎にした市民の憲法であるならば、賛成の署名、市民社会による市民的裏書(エンドース)、市民的批准(ラティフィケイション)などという形も検討されるべきであろう。こういう作業を通じて、日本の憲法が、北東アジアの平和、自立、人権の資産であることが国際的にも確認されることが望ましいのである。ここで大事なのは、北東アジアの市民社会とともに、この日本において、「北東アジア市民社会の、北東アジア市民社会による、北東アジア市民社会のための」日本国憲法を作っていくことである。
このように、日本の憲法改正問題を東アジアの市民社会に開こうとするとき、わたしたちがすべきことは多く残されているし、このほかにも、いくつものアイディアは浮かぶ。だが、非力なわたしたちでは実現できないことをいくら主張しても夢に終わる。具体案の提示はこの辺で切り上げておきたい。

おわりに  

 今回の報告のテーマは、このフォーラムの一月ほど前に主催者から与えられた。「市民憲法制定と北東アジア平和」というテーマである。護憲派の中には、北東アジア諸国が憲法第九条の内容を自国でも採択することが地域の平和への道であるとする人がいる。私は、きわめて個性的な一国の憲法の内容を近隣諸国に輸出した例をあまり知らない。フランス革命直後の熱狂の時代におけるフランスの近隣諸国支配か、スターリン時代のソ連による東欧支配の場合か、いずれにせよ、こういう事態が生じるのは軍事的な制圧後のことである。そういう意味からすると、護憲派の唱える憲法九条の平和的な輸出という考え方は、勝者による正義の押し付けではなく、勝者が敗者の誓約に追従せよとするものであり、実現すれば、世界憲法史の奇跡であり、大いに貢献するものといえる。だが、「汝ら人民、悔い改めよ。聖書の教えに従え」と絶叫する宗教家のように、「アジアの憲法は悔い改めよ。日本国憲法第九条の教えを採用せよ」と主張することで問題が解決するのであろうか。
 いうまでもなく、わたしはこの考え方をとらない。わたしは、遠く、北東アジアにおいてもある種の政治共同体の建設を理想とするのであれば、そのためには、政治的な相互理解と、各国、各地域における通底可能な憲法体制の構築に向けた、市民社会における長い時間と努力を傾けた作業が必要であると思っている。ヨーロッパの場合は、こういう長い作業の末に、多くの国が陸続きで、キリスト教文明を共有してきたという好条件にも恵まれて、EUという地域統合に踏み切ることができた。北東アジアにおいては、こういう地理的、文化伝統的な条件も欠いているのであるから、ヨーロッパ以上に、市民社会の抱えている課題は困難さを伴っている。
 わたしは、こういう点での具体的な考察抜きに、東アジア政治共同体の構想を語る人々への疑義もこめて、北東アジアにおける政治的な相互理解のひとつの練習の場として、日本国憲法の改正問題を考えてみたらどうかと思っている。何度もいうように、こうした忌憚のない議論の応酬を行わないで、日本の市民社会は、どのような思想的な立場から、北朝鮮に平和と自立と人権の確保の憲法を求め、韓国と北朝鮮、中国と台湾に、相互に通底する憲法を求めることができるのか。
 このように思いは壮大であっても、報告の準備の時間は少なすぎた。加えて、ハングルへの翻訳に要する時間を割くために、わたしのレジュメの提出はさらに大いに急がされた。そこで、準備不足もあって、日ごろ考えていたことをそのまま表現するだけにとどまってしまった。わたしとしては、この報告で、大事な論点を提示しているつもりである。だが、そのために、自説を支える実証的なデータをきちんと揃えるなどの重厚な準備ができなかったことが残念である。今日の報告をスタートラインとして、多くの友人とともに議論する中で、今回は実行できなかったわたしの責務を果たしたい。


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