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第3回 市民立憲フォーラム 基調報告

「基本的人権概念のパラダイム転換」

江橋崇(平和フォーラム代表/法政大学法学部教授)

1 生産関係にある市民の人権から全き生活者としての市民の人権へ

 日本国憲法には、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する25条の生存権規定がある。これに関連して、22条に、働いて生活するための職業選択の自由、営業の自由の保障があり、27条に勤労の権利があり、そこで得られた収入で自分と家族の生活を維持するために、29条で、私有財産権が、一種の基本的人権として保障されている。これが、日本国憲法における社会権規定である。

 これらの権利は、健康で文化的な最低限度の「生活」の保障といっても、実は、市民を、生産の関係を軸にして概念化している。市民は働くものであり、自営業者であったり、労働者であったり、農民であったり、商人であったりするのである。働く能力を高めるために、市民には、自己に適した教育を受ける権利が保障されており、職業訓練の機会も与えられ、また、万一、病気や怪我をすれば医療のサービスを受けることができ、失業して働く機会を得られなくなれば、社会保障と就労支援が提供される。勤労者には、生産の場で雇用者と対等に交渉できるように、28条で労働基本権が保障されている。昨今強調されるセーフティーネットでいえば、社会権規定は働くことへのセーフティーネットであって、「生活」そのものを直接に保障してはいない。

 考えてみれば、日本社会は、江戸時代から、身分によって働き方が固定化され、差別のある社会であった。中国の場合は、働き方で身分が定まり、その身分に差別が付いて回ったから、商人の子でも科挙の試験に合格すれば「士」になれたが、日本では武士以外の身分の者が「士」になることは難しかった。日本のほうが、身分を代えることがいっそう困難であったのである。

 それに加えて、近代の憲法理論では、自由権の主体として、一般の勤労者のほかに、宗教者、表現者、報道者、教育者など、積極的に仕事を行い、それから収入を得て生活している者、宗教家、芸術家、ジャーナリスト、教員などとして生計を維持する者、すでに生産関係を卒業して資産の管理と運用で生活している者という人間像も描き出して、そういう能動者の人権を保障することが人権保障の軸となり、能動者に対応する受動者の側の人権は、改めて保障までもなかった。

 こうして、古くからの伝統的な概念も、憲法が定めた社会権の概念も共通して生産関係を基軸にした人間像であったのだから、20世紀の中期、日本国憲法が制定された当時には、人々は、「市民」というものを生産関係において能動的に働く者と把握していたと理解してよいと思える。

 これに対抗した社会運動の側でも、マルキシズムは、人間の本質は生産関係においてどの階級に属するかで決まると主張した。そこに生じる自分の所属階級の自覚と、労働者階級を前衛的に指導する共産主義政党への忠誠が、階級意識の覚醒として高く位置づけられていた。

 したがって、社会権を含む日本国憲法の人権カタログが、生産関係における能動者を基軸にして構成されることには、とくに不自然さは感じられなかった。

 しかし、市民の「生活」は、決して、生産関係だけで決められるものではない。市民が生きるということは、働くことによって収入を得て、それを、自分と家族の現在の生活の消費に用いるか、将来の生活を自ら確保する貯蓄、資産形成に用いるということであった。この場合、消費には、衣食住の確保、そのための、衣類の消費、食料の消費、住居の消費だけでなく、文化の消費、娯楽の消費、報道の消費、教育の消費なども含まれる。貯蓄ないし資産形成も、現代社会においては、金融サービスの消費といえる。そうした意味で、市民の生活は、生産と消費の循環で成り立っているといえる。

 20世紀後半の社会の変化と、それゆえに生じた人権概念の変化は、生産関係を軸とした既存の概念では適正に扱うことのできない、市民の消費関係、生活面での問題群の発生であり、それに対応するための新しい人権の登場であった。

 企業の生産活動が作り出す環境負荷の増大が、消費環境にある市民の、健康被害に苦しむ「公害被害者の権利」「環境権」の主張を生み出した。報道機関の報道の自由ではカバーできない受け手の側の「知る権利」、「プライバシーの権利」も主張された。自分が必要とするものを摂取するとともに不適切なものを拒否する「教育を受ける権利」「受験教育拒否の権利」「信仰に反する教育を拒否する権利」「給食アレルギーからの解放を求める権利」なども、公教育サービスの消費者としての主張といえる。政府による福祉公共サービスに対する「措置請求権」などもある。つまり、20世紀の後半、人々は、消費する市民としての自己についての自覚を深め、受け手の側からの人権を主張したのである。時期的には早くからであるが、ラルフ・ネーダーの運動などに影響されて、「消費者の人権」という概括的な人権が主張されもした。

 これに加えて、家庭の問題も再検討されるようになった。まず、核家族化と父親不在、母親中心の消費生活の成立があり、次に、「法は家の敷居に止まる」という公私二分論が批判され、家父長支配に対抗する、家族関係における「女性の人権」「子どもの人権」が主張されるようになった。

 これは、実に大きな、歴史的な変動であった。人間の本質が生産関係を基礎にした身分、階級で決定されるという観念が克服されて、再生産という広い基盤で理解されるようになったのである。生産的、階級的人間に代わる消費的、生活的市民の自己主張の登場といってもよい。

 生じた事態は、階級闘争に代わる市民運動の登場でもあった。勤労者の運動に代わる生活者の運動。古い時期にこうした市民運動に関わっていたベテランは、自分たちの運動が、左翼の諸政党、諸勢力から、階級関係という本質をあいまいにするものとして激しく排斥された過去を忘れてはいないであろう。

 そういう階級闘争論の人々からすれば、消費する市民という立場での人権の主張、受け手の立場からの人権の主張、総じて、全き生活者の人権の主張には、どことなく、胡散臭い物が感じられて当然である。市民運動そのものと同様に、新しい人権の主張は、胡散臭いものとしてしか見えなかった。憲法に関していえば、人権インフレ論という新しい人権概念に対する蔑視と非難が強まったのも、このことと関連する。

 消費する市民の人権、全き生活者の人権がなかなか認められなかったもう一つの理由は、「福利厚生、会社もち」という日本社会独特の再生産のあり方にもあった。社宅、通勤手当から始まって、日用品の配給、各種文化活動の組織化、福利厚生施設などなど、いわゆる企業城下町では、市民の生活から自治体のあり方までが特定大企業に影響され、支配されていた。全国の大企業で、3泊4日までが経費で落とせるようになったとたんに急増した従業員の海外慰安旅行もその一例である。従業員の子どもに奨学金を支給する企業も少なくなかった。これに対抗して、労働運動や政治運動も、囲碁大会、将棋大会、運動会、コーラスグループにダンス教室、音楽コンサートの企画やチケット販売をした労音や演劇の鑑賞など、消費生活に関するさまざまなサービスを展開したが、生産関係の中に消費も抱え込むという点では、日本型企業の論理と似たり寄ったりであった。

 1960年代以降に市民運動がなしえた「新しい人権」の主張は、実は日本の社会の変化がそれを生み出すことを求めたのである。

 市民の苦しみ、痛みが、主として生産関係で生じている社会では、日々の生活での苦労は多いが、それでも、会社や工場から帰り、最寄の駅で下車すれば、空は真っ赤な夕焼けで輝き、あたりは清浄な空気で満たされている。そこで深呼吸すると生き返る思いがするし、見回せば、駅前の広場にはとんぼが舞い、子どもたちがにぎやかに遊びまわっている。豆腐屋などの売り手が出す音も聞こえる。家に帰ったら、まず銭湯に行ってさっぱりし、優しい専業主婦の妻が心を込めた夕食と少しのお酒を楽しみ、巨人―中日戦のナイターを見る。

 こういう社会はなくなった。それに代わって登場したのが、上にも取りあげた、都市型社会である。緑の消滅、空気の汚染、保育・教育の貧困、交通の混乱、医療の過疎、福祉の不在、そして性差別など、生活場面での人権や差別が問題となるようになる。

 「社会問題が生じるときには、同時に、それを解決する方法も準備されている」という言葉には聞くべき内容がある。生産関係では捉えきれない、消費する市民という立場の自覚、あるいは、生産と消費の間を行き来する生活者という立場の自覚、これが、新しい人権論の基礎にあった。このことを今、確認する必要がある。

2 生産点での集団行動から、人権に関する個人的な相談、苦情処理へ

 ここから生じる問題は何か。まず、人権のカタログの再構成が必要とされることになる。それも、加除のレベルではなく、パラダイムの転換が必要である。

 しかし、実は、すでに日本では、これが行われてしまった。人権政策のパラダイム転換は、運動の側の主張であるだけでなく、政府の発行する文章においても生じている。1990年代には、国や自治体の文書でも、「障害者の人権」「高齢者の人権」[子どもの人権]「女性の人権」「部落出身者の人権」「先住民族の人権」「外国人の人権」など、生活者の人権、全き市民像を基準にした人権が語られるようになった。

 変化は、こうした人権の侵害に対する救済方法についても現れている。生産関係においては、人は、人権侵害や差別に直面したとき、さまざまな集団的な「労働運動」「階級闘争」を行うことができた。労働基本権のように、憲法が認めている手法もある。運動は、直面している人権や差別の問題について、現場での解決を志すだけでなく、「ゼネスト」や「供出拒否」に代表されるように、それを生み出している社会全体との闘いを目指し、さらに、「総資本」対「総労働」の闘い、ついには、反政府運動、反体制運動へと連なるものでもあった。

 これは、勤労者側だけの問題ではなく、戦後日本で、経営者団体や農業団体など、各種の業者団体が、選挙における資金と票を武器に、いかに政府や政党に圧力をかけて、自己の主張を貫徹してきたのかは周知のことである。

 しかし、新しく表面化してきた消費関係、市民生活関係においては、こういう手法への依拠は困難である。そこでは、集団の数の圧力でない、多かれ少なかれ個人的な、相談、苦情申し立てを軸にした新しい人権主張、反差別の手法が開発されている。いわゆる、「市民運動スタイル」のものである。

 1960年代の後半に始まったベトナム反戦運動におけるべ平連の活動スタイルは、自分がやりたいことを行い、それを他人に押し付けない、という、集団運動であるけれども、自覚した個人が自主的に参加している、統制や団結強制のない、その意味で集団運動から個人運動への過渡期を代表するものであった。

 市民の生活に関する人権ということを考えるとき、それが主張される場としての「地域」ということを考えなければならない。

 以前の人権の理解では、それは全国的に普遍的なものであり、平等に実現されるべき物でもあった。実際には、全国各地で、物価水準に違いがあり、賃金水準にも違いがあり、雇用率も、経済成長率も違うのに、人権の世界では、全国画一であった。ところが、市民の生活での問題、例えば環境問題を考えるならば、それは、特定のすばらしい環境をともに消費してきた「地域」の問題なのであり、それの破壊に対しては、人権が、地域の範囲で主張されることになる。訴訟の場で、地域住民の利益を代表するクラスアクションが提唱されるようになったのも、この時期である。地域食料供給、地域医療、地域教育、地域文化などでも、「地域」を単位にした再生、再構成の必要が説かれていた。

 さらに、福祉の問題を考えるならば、差別され、孤立させられている、一人暮らしの高齢者、いじめに苦しむ子ども、DV被害の女性、ホームレス、外国人住民などに配慮して、彼ら自身のエンパワーメントをはかり、地域社会における全き市民生活の回復、つまり、ソシアル・インクルージョンを図ること、つまり、「地域」福祉への権利がカギとなる。このことは、すでに、福祉の基礎構造改革という課題の中で、「社会福祉法」の定める自治体の「地域福祉計画」策定に関連して厚労省も言っていることである。

 そして、食の問題について、21世紀は、地域における食と農の文化の再建、「地産地消」という考え方とともに出発している。すでに、これを発展させて「食の地方分権」であるべきだという主張も出てきている。

 企業活動と地域の人権確保との関係はまだ不明確な点が多いが、地域市民を企業の利害関係者(ステイクホルダー)に数えて配慮することや、企業の社会貢献活動、あるいは、社会貢献投資、地域再投資などのかたちのなかに埋め込まれているといってよい。

 私は、21世紀の人権は、地域において、個々の市民の生活が健全に維持されること、望むべくは、よりよい生活に変わっていくことと結びつくべきであるし、実際にそうなるであろうと思っている。そうした意味で、人権は地域振興と関連しているのだし、「人権のまちづくり」という課題も設定されてくるようになると思う。

 そうした意味で、地域を基礎にした個人的な苦情の申し立てが、21世紀の人権主張のスタイルになるのではないか、と思う。人権における地域性と個別苦情の重視、ここに、人権論のもう一つのパラダイム転換が見える。

3 人権実現の責務

 人権論のパラダイム転換は、さらに、その実現の方法についても、転換を迫っている。1970年代の市民運動は、そこで求める人権が、都市型社会において、大なり小なり、公共サービスの受容に関連していることから、人権実現のための政府の責務を強調し、その実現を迫るものであった。

 こうした動きと並行するものとして、人権裁判の取り組みがあった。まず、そちらから見ておこう。

 私は、日本の人権の歴史の中で、朝日訴訟をきわめて重要な意義のあるものと評価している。あの訴訟で、初めて、市民個人が、国家に対して生活保護の不足を非難し、「再生産」にかかわる人権実現という責務の実現を迫ったのである。朝日訴訟以前は、裁判の場での人権主張といえば、表現規制と表現の自由の衝突や、営業規制と職業選択の自由の衝突のように、市民が何らかの刑事裁判に巻き込まれたときに、行動の正当性を主張して免責されることを目的にした、自己防衛的な、自由権主体の主張が多かった。それが、この訴訟では、市民が、国家を相手取って、積極的、能動的に訴訟を提起して人権実現を迫った。刑事訴訟ではなく、国を相手取った民事訴訟、行政訴訟を提起して人権を主張する道が大きく開かれたのである。

 しかも、朝日訴訟の第一審東京地裁の裁判は、原告勝訴の判決となり、人権裁判に秘められた可能性をはっきりと示すことにもなった。このインパクトは、その後、国が全力を挙げてこの訴訟の上訴審で反撃し、高裁判決が第一審判決を否定し、最高裁判決が、原告が死亡して訴訟が終了したと述べた後で、あえて、生存権規定はプログラム規定にすぎないと判示したにもかかわらず、決して消え去ることはなかった。

 70年代以降の市民運動は、この事件をモデルとして、裁判を通じて社会権、人権の実現を国に迫るという方法論をとった。環境権の主張が、反公害裁判に携わる弁護士によってなされたのは、代表的な事象であった。憲法13条を根拠にした嫌煙権の主張は、当初はいささかとっぴな感じを与えたが、しっかりと定着した。セクハラを、憲法13条、14条の保障する女性の人権侵害と捉える中から、個別の裁判闘争を通じた広範な運動が広がって行った。

 裁判を起こすには、自分の権利が侵害されたという構成が必要である。そのために、市民運動は、裁判が起こせるようにという意味で、多くの新しい権利、人権の主張を行った。そのなかで、人権論が「生活者の人権」性を獲得して行ったことや、「人権インフレ」と非難されたことはすでに述べた。

 残念なことに、日本の裁判は、同時期のアメリカの裁判のように、社会改革的ではなかった。裁判で勝訴して人権が実現されると言う予測はなかなか立ちにくかった。しかし、当時のマスコミは、生じている社会問題について、関連する訴訟が起こされると大きく報道するという傾向が強かった。そこで、人権の訴訟を起こして、そのことで社会的にアピールするということになった。当時、私はこれを「訴訟提起の間接効果」と呼んだことがある。時には、便宜主義的な主張もあったが、社会的なアピールに効果が出て、被害者が結集し、運動として盛り上がるという効果は大きなものがあった。

 日本の裁判所が社会改革的でないという隘路を打開するために、裁判所をアメリカ並みに人権や差別に敏感なシステムに改革しようと言う狙いで、アメリカの憲法裁判論の緻密な紹介が始められた。事件性の要件、憲法上の訴えの利益、違憲性主張の当事者適格、立法事実、第三者の人権主張、合憲性推定原則、二重の基準など、憲法学の知らなかったいくつもの述語が開発され、憲法学の様相が一変した。

 しかし、こうした努力にもかかわらず、日本の裁判所、特に最高裁判所は、ついに、社会改革的にはなりきれなかった。失望感が広まるのも、それほど遅いことではなかった。

 こうした背景のもとで、もう一つの新しい方法が生まれた。人権を政府の力で実現させるというものである。ここには、もう一つのパラダイム転換があった。

 もともと、日本の人権には、「官の人権」という傾向が強かった。いまここでそれを全面的に説明すると膨大に過ぎて話の軸がぶれるので、最小限の説明にとどめておくが、要するに、日本では、人権とは、立法をチェックする基準であり、あとは、社会関係で市民が相互にこれを侵害しないように、政府が、市民を啓発し、教育し、市民相互の侵害事例を国が人権擁護委員システムなどで救うというものであった。政府は、法律を制定すれば人権を保護したことになる。法がない領域での人権侵害は、社会問題であって、社会自らが解決すべきものである。ただ、政府は、そういう問題が生じていない社会がすばらしいという「全体の利益」「公共の福祉」の実現のために、上から、指導的立場でもって介入することがある、ということになる。

 ところが、市民運動は、生じてきた問題に関する法律の不備を指摘して、国に対しても自治体に対しても新たな立法を迫り、あるいは、法律や条例が不在でも新たな施策を展開することを求めた。このとき、市民運動は、人権実現に向けての政府の「責任」「責務」を、憲法裁判のように間接的にではなく、直接的に主張したのである。これは、それまでのような、社会における問題に関して政府が「恩恵的」に「措置」を加えるという考え方とは大きく異なる、もう一つのパラダイムの転換の主張であった。

 国は、こういう市民運動の要求にとっては厚い壁であった。しかし、自治体では、選挙における票の獲得というポイントがあるので、その地域で生じている人権侵害や差別の問題について、積極的に取り組むことを「責務」と考えて公約に盛り込む多くの候補者、当選後には首長、が生まれた。朝日訴訟の影響もあって、社会生活、福祉に関する多くの人権の実現が社会権の実現として「責務」化された。法律や条例の根拠が薄くても、この「責務」は軽減されない。そこで「計画行政」が考えられ、「要綱行政」が実行された。これらは、市民運動からの切実な訴えに対する一つの対応のスタイルであった。

 「責務」の実現では、保育、教育に関するものも多かった。在日の多住地域では、外国人の差別問題への取り組みが進んで「責務」とされた。川崎市が在日に対する差別撤廃に向けた26項目の施策の柱を立てて、総合的な取り組みを「責務」として認めて実行して行ったのは、ひとつの例である。町田市のように、障害者施策への取り組みを宣言して、新たに多くの障害者が転入してきた自治体もあるし、神奈川県のように、インドシナ難民の受け入れ施設を開設することで難民多住地域となっていったところもある。いずれにせよここに、市民運動が「責務」の実現を迫り、自治体が人権政策を実施するという事態が生じた。

 ここにもうひとつ作用したのが、国際人権諸条約である。70年代以降の市民運動は国際人権諸条約への加盟を求めた。古くからこういう主張はごく一部の法律家の間にあったが、実際に社会全体の問題となったのは80年代以降のことである。国際人権諸条約を軸にする国際人権法には、いくつかの主張が込められていた。

 まず、国際人権諸条約には、日本国憲法の条文に欠けている人権が保障されていた。日本国憲法の人権規定は、それを考案したGHQの人権理解のレベルを露骨に反映しているのであって、ありていにいえば、とても古い19世紀的な自由権中心の人権の考え方を基調に、GHQ内部の社会改革派の考えた、福祉、医療、教育、労働などに関する法的に未整理な理念と、日本の警察システムを強く警戒する詳細な刑事人権規定とで成り立っているものであるから、第二次大戦後に、国連を中心に検討されて国際的な合意を見た各種の人権の考え方に比べれば、はるかに遅れている。そこで、市民運動は、この遅れを回復するために、最初は理念として、条約加盟後は条約に基づく権利として、国際人権を主張したのである。

 次に、当時の日本は国際化の進行の中にあり、国際社会に共通する法規範を活用することが先進的でレベルが高いという幻想もあった。憧れとしての国際人権法である。だが、このように書いたからといって、自分も含めた国際人権法推進派の思想や行動を茶化すつもりはない。当時、国際化の進展にともなって見えてきた、南アフリカのアパルトヘイト、イスラエルのパレスチナ支配、中南米の軍事独裁政権による大量人権侵害、アジアの開発独裁政権の人権無視などの深刻な問題に関して何か行動したいという思いに応える一つの道が、国際人権法による国際的な批判に加わり、プレッシャーを強めることであった。国際人権法は、「一国立憲主義」をこえる地球市民化の鍵と考えられていた。実際、このプレッシャーは、行動している自分たちが考えていた以上に効果的であった。

 この、国際人権法には、ここでもう一つのパラダイム転換と言っている内容、つまり、各国の政府に人権実現の「責務」があるという考え方が含まれている。

 そもそも、主権国家が構成している国際社会においては、主権国家間の合意によってかろうじて法秩序が形成されているのであって、そこには、強制的な法実現のシステムはない。したがって、国際人権法の場合も、主権国家がそれを侵害しても、強制的に是正する道はなく、人権実現の方法が容易に見つからなかった。法律学の世界では、実効的な強制手段のない国際法は法でないと公然と口にされていたのである。

 そうした中で、国際人権法を唱える者は、人権諸条約に加盟する政府の誓約の要求、実施状況に関する政府報告の要求、専門家が構成する人権委員会によるそれの検討・公表・批判、人権侵害に関する市民や他の国による通報の受理、人権関係の専門委員会による調査・報告・公表・批判など、さまざまな方法を考えだした。

 結局のところ、そこでは、主権を有する各国が、人権の実現について、自発的、能動的、裁量的な「責務」を負っていることを自認することが鍵であると考えられた。だから、各種の人権条約には、例えば女性差別撤廃条約2条のように、「差別を撤廃する政策をすべての適当な手段により、かつ、遅滞なく追求すること」を約束するような規定がおかれている。

 この点が、市民運動の注目し、促進したところであり、政府に対して人権の実現を迫るときにも、また、自治体に対して交渉するときにも、国際人権諸条約の「積極的な人権実現の責務」がキーワードとして使われた。このうち、自治体は、直接的には条約締結の主体ではないが、国がそれに加盟すれば当然にその条約に拘束されるのであるから、条約上の実施義務を負うことになるし、とくに、人種差別撤廃条約のように自治体が名指しで政策実施主体として指定されているときには、その固有の「責務」性がひときわ目立つのである。

 こうした国際人権法の考え方にも後押しされて、市民運動は、人権実現に向けた国や自治体の責務を強調してきた。実際問題としては、このパラダイム転換はすでに実現されている。さまざまな法律や条例で、「国の責務」ないし「市(県)の責務」という規定がおかれ、人権実現が条約上の責務から法律上の責務に転移されている。

 遅れているのは、憲法学の対応である。昔、ドイツの憲法学者トリーペルは、政党結成の自由に関する憲法規定の発展史をもとに、人権というものは、最初は体制側から危険なものとして激しく非難されて禁圧される段階にあるが、時代の進展ととともに、そういう自由が社会に存在することは認めるが法的には無視し続ける放任の段階になり、そのうちについに、実定法の中に取り込むが憲法は依然として無視し続けている法制度化の段階ようになり、最後に、憲法上の考え方として承認されるようになる、憲法上の保障の段階に至ると説明している。

 今の憲法学は、まだ、こういう政策実現の責務を憲法上のものと認めることにためらいを感じていて、これは立法裁量の問題だといって判断の枠の外に放り出している。運動に関わってきた憲法学者は、部落解放同盟の手先として無視され、その意見は公然と嘲笑されている。

 しかし、実際には、すでに指摘したように、市民運動も、議員立法に熱心な国会議員、地方議会議員もこうした「責務」の実行を迫っており、すでにいくつかの法律や条例のレベルでは、政府の積極的施策実行の責務が条文化されて認められているし、こうした責務規定を含んだ国際条約にも数多く加盟している。憲法学は、「責務」「責任」を適切に概念化してきていないので、ここでいう施策義務のように、自発的で、能動的で、裁量的な責務を考えるのが苦手であるが、いずれ、この「責務」は、憲法上の責務としても明確化されるであろう。

 ところで、人権実現を政府の憲法上の責務とすることの実際的な効果はなにか。すでに実現されているところから、二つの内容が抽出される。

 一つは、人権実現に関する具体的な道筋をはっきりさせる必要が生じてくるということである。具体的には、「計画」の策定とその進行管理が憲法上の義務として強く意識されることになる。

 もう一つが、個別救済の重視、言い方をかえれば、地域における、人権、反差別のエンパワーメントのシステム作りである。被害にあった市民が自らその問題にとりくんで解決する道はなにか。私は、やはり、相談と苦情対応が大事だと思う。特に人権問題は、地域において、職域、学校、家庭などの隅に沈潜しがちであるだけに、当事者が声をあげるのはさまざまに困難であるが、それを振り切って、地域における、人権、環境、福祉、医療、教育などの相談窓口に現れることが大事であるし、現れた市民、相談された事項に徹底的に付き合って問題の解決を図ることが、決定的に大事である。

 そうした意味で、人権政策は、地域における相談のシステムそのものの重視に努めなければならない。これがきちんとして制度化されていないならば、それは憲法上の「責務」を無視するものであって、人権の抑圧に加担することになる。

 アメリカやイギリスでは、こうした個別的救済の課題を実行する主たるシステムは裁判所であった。司法的救済である。いっぽう、ほかの国では、政府自らによる行政救済という考え方が有力であった。この土壌の中から、オンブズマンという制度も工夫されてきた。日本では、日本国憲法はアメリカ型で司法的救済を考えていたが、肝心の「司法」がアメリカ型に転換されなかったので、うまく機能していない。そこで、実際に生活者に一番近い政府である自治体を中心に、各種の相談、人権救済の申し立てが行われてきたし、その比重が増している。

 これは、石油ショック以前の、大量生産、大量宣伝、大量消費、大量廃棄という生活のあり方を改め、少量多品種生産に転換した経済のあり方、大量一括の施策を改め、地域、対象者の実態に合わせた、少量多品種行政サービに転換した、政治のあり方の変化にも対応している。

 少量多品種生産では、消費者の需要の変化の把握が決定的に大事であり、他方、少量多品種行政では、住民の需要の変化の把握が大事である。それを活き活きと伝えるのが、市場においても、政府においても、各種のクレームの発生である。個別のクレームの相談、苦情に対しては、まずはその事案の解決が最優先され、その過程で発見された構造的なゆがみが制度的に正される。そうした意味で、お客様の声、住民の声は大事なデータである。

 古い時代、生産関係を軸に人権が問題になっていた当時には、相談、苦情対応の機能は、労働組合が担っていた。職場の分会に相談や苦情が持ち出され、組合の中央で集約され、職場における諸問題として雇用者側との交渉が始まったのである。今では、組合の機能も低下したので、例えばトヨタでは、各職場に十五人に一人の割合で相談員を配置しているように、生産関係の人権問題も労組中心から会社中心へと扱い方が変ってきた。

 いっぽう、消費の面、生活の面での差別や人権侵害は、地域における個人の主張として表面化してくる。社会構造上のゆがみを是正する端緒の発見も、こうした個別苦情への対応の中にあることになる。

 実際には、こういうトラブルの表面化が難しく、人権侵害は、職域、学校、家庭、地域に沈潜するといわれている。労働の場で組合が果たしていた役割を、生活の場で地域の行政に対して担っていたのが、町内の有力者(ボス)であり、政治家である。以前は彼らの口利きで、さまざまな問題が解決した。しかし、今では、そういう議員や有力者(ボス)の機能も低下している。

 私は、20世紀後半の市民運動が主張してきたことを基盤に考えるならば、21世紀の人権は、地域性、被害者のエンパワーメント、広い相談業務、当事者の声の尊重などを軸にした、市民生活の全面的な回復のツール、一言で言えば「地域取り組み、当事者参画、総合解決を軸にした、まちづくり」の人権であるべきだと考えている。

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