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第2回 市民立憲フォーラム 報告

「憲法と政治について考える」

杉田敦(法政大学法学部教授)

 本日の話は「憲法と政治について考える」ということで、去年、ある憲法関係の学会で話をした時の内容とかなり重なっています。その学会で私は、自分なりに憲法学者の方々に論争を挑んだつもりでしたが、あまり正面から受けとめてはいただけませんでした。

  私は以前から、冗談交じりに「改憲派がいなくなれば、いつでも改憲する」と言ってきました。これは、いくつかの命題に分解できます。一つは、「改悪はダメだが、改正ならいい」という意味であり、最近、野党党首も同様のことを言っています。もう一つは、「今のいわゆる改憲派とは立場が違うので、一緒にはやれない」ということです。

 私は、絶対的な護憲という立場ではありませんが、かといって絶対に改憲しなければいけないとも思っていません。むしろ、護憲対改憲という軸で考えない方がよいと考えています。そのあたりのことについて、これからお話して行きましょう。

 イギリスの政治思想家でエドマンド・バークという人がいます。バークはフランス革命に対して、それが抽象的な権利である「人権」を振りかざしているとして批判を加えた人物です。しかし彼は、アメリカの独立の時には、一転して、革命派=アメリカ独立側を支持した。つまり、ある種の革命は非難して、ある種の革命は、支持しているわけです。

  バークがアメリカ独立派を支持しる際に用いたのは、「アメリカの独立派は、一見したところ、自己決定権という抽象的な権力を振り回しているように見えるが、そうではない。実は宗主国のイギリスの方こそが、植民地統治権という抽象的な権力を振り回しているのだ」というレトリックでした。

  このバークの態度を、単なる日和見にすぎないと見なす人もいるかもしれませんが、彼には彼なりの「自由な体制」のイメージがあったわけです。フランス革命では、その自由な体制が破壊されると考え、アメリカの独立では破壊されないと考えた。つまり、一概に革命がいいとか悪いとか議論することはできないということであり、結局、そこで何が実現されるかこそが重要であるというわけです。バークはイギリスで曲がりなりにも育っている自由な体制を守るという意味で保守主義を唱えました。ですから、その内容は、自由な体制を保守するということになります。その意味で、イギリスの保守主義は、自由主義とほぼ同義なのですが、こうした点は、日本ではほとんど理解されていません。

 以上の話が、どのように憲法と関係してくるかというと、憲法改正とは実はある種の革命であるということです。それは、新しい政治秩序を、白紙の上に一挙につくり上げようとする試みだからです。改憲派は、日本国憲法の成立過程が「押し付け」であったと見なし、自分たちの手で新たな憲法をつくらなければならない、と主張しています。これは、本当の革命を自らの手で行いたいという主張に他なりません。その意味で、改憲派とは実は革命派である、という点をまず確認しておきたいと思います。

 私は、革命が常に正しいとは全く思っていません。したがって、「あれはちゃんとした革命ではなかったから、自分たちで革命をしようよ」と言われても、すぐにそれに乗ることはできません。実現しようとしている内容次第だ、と思うからです。それは私がバーク的な精神を引き継ぎたいと思っているからです。そのために、まずは、憲法典(constitution)という一個のテキストが、政治体制としてのconstitutionの中でどれだけの比重をしめているかを、よく考える必要があると思っています。

 そう思うようになったきっかけに、学生時代に受講した憲法の講義があります。そこでは、各国の憲法典が比較検討され、たとえばソ連の憲法がいかによくできているかが論じられていました。それに対して、そうした議論に一体何の意味があるのだろうか、実際に実践されていない憲法典が何ほどのものか、という反発を感じたのです。もちろん、憲法典がなくていいということではなく、憲法典と政治体制としてのconstitutionをダイレクトに結びつけて考えない方がいのではないか、という意味です。

  そういう意味で私はconstitutionというものを、ルールブックとしてのテキスト(憲法典)に限定せず、どのようなプラクティス・実績を積み上げているかを重視するという、イギリス保守主義的な考えをもっております。

 お配りした資料でまず論じているのは、憲法学と政治学の「憲法をめぐるすれ違い」はいかなるものかということです。最近、憲法学界では、立憲主義という言葉を、「少数者の権利を守る為に、どのようにデモクラシーの暴走を抑えるか」という意味で使っているようです。これは、憲法改正こそが国民主権の発動であり、したがってそれこそがデモクラシーなのだ、という改憲側の議論に対抗するという意味合いがあるでしょう。実際、改憲派は、改憲に際して、今の硬性の(修正の要件が厳しい)憲法典から軟性のそれに変えることを目指しているようです。こうした動きについて、護憲派の憲法学者は危機感を感じているわけです。この背景には、憲法学者の方々が、基本的に日本のデモクラシーの水準に関して不信感を持っており、政治よりも法律の方が信用できると考えていることがあるでしょう。しかし私のような政治学者にしてみれば、政治を良くしない限り、最高裁だってよくなるはずはないと思われます。必要なことは、デモクラシーの質そのものを上げることでしょう。

  一方、政治学では、松下圭一さんたちが中心になって、霞ヶ関にある統治権力を永田町に移すべきだ、ということをずっと主張してきました。この点で、憲法学と政治学は対立している。つまり、これまでの政治学からすれば、霞ヶ関のような選挙で選ばれていない部分が統治権・権力を独占しているよりは、選挙(一種の疑似革命でもあります)によって選ばれた部分が主導権をもつようにする方が正しい、ということになるわけです。

  しかし私は、そういった従来の政治学とも違う考え方をもっています。つまり、国家権力というものは、どこかにゴロっとあるようなものではないというのが、私の権力論です。権力がそこから噴き出す中心点のようなものは、霞ヶ関にも永田町にもない。それでは権力はどこにあるのかというと、色々なところにあるとしかいえない。そして、様々なところにあるからこそ、一つひとつの具体的な制度を問題にしていかざるを得ないというわけです。

 たとえば、今の自治体改革の流れは、もちろん一歩前進だと思いますが、それでは法制度が変われば、全ての問題は解決するのでしょうか。法制度がおかしいから、地方自治の問題が解決しなかったということもあるでしょうが、それよりも、個々の自治体がどういう具体的な実績を積み上げてきたのかが重要だということです。憲法典や法律さえ変えれば、ドミノ的に諸々の問題が解決されるわけではないということです。「霞ヶ関に権力がある」という考え方は、一種のレトリックとして理解はできますが、あまりにも問題を単純化しすぎているように思います。霞ヶ関も、国民の世論と無関係に、自己利益に基づいて何でもできるというわけではありません。官僚といえども、世論に動かされているわけで、それを抜きに「霞ヶ関が独走している」という言い方は間違いだと思います。

 このことに関連して、現在の憲法論議の中にある契約論的な発想についても一言述べておきたいと思います。「人びとの契約によって新たな秩序をつくろう」という考え方には、解放的なイメージがあります。しかしながら、実際の政治は、もろもろの実績の積み重ねでしかないわけであり、契約によって急激に何かが変わるということはありえません。これまで、日本国憲法の成立を社会契約論的に説明しすぎてきたことが、「憲法典の改正によって社会を変えられる」という幻想を再生産している面があるのではないか、と私は思っています。

 以上のようなことを学会で話したのですが、あまり反応がありませんでした。ただ、東大の長谷部恭男さんは、私のような議論の背後に、H・L・A・ハートという有名な法哲学者の考え方があることを見抜いてくれました。ハートは、法とはある種のゲームのルールを人々が実践し続けていることそのものである、と主張しました。そうした法についての手続き的なルール(二次ルール)が成立した時に、法は高度な段階に達します。しかし、そうした二次ルールにしても、結局のところ、人々がそれを守っているかぎりで成り立つので、一種のプラクティスだということになります。人々の実際の行為を超越した高いところに法があって、それが人々の行為を規制しているということではなく、人々の行為そのものが法なのだ、ということです。これを私流に言い換えると、「法も政治だ」ということになります。これに対してこれまでの憲法学者は、「法、とりわけ憲法は汚れた手で触ってはならない聖域だ」と主張し、政治から遮断しようとした。それがかえって人々の反発を招き、「主人公であるわれわれに触らせろ」となったのが、憲法論議の背景であると思っています。

 私が言いたいことは、テキストをフリーハンドで書くということにそれほど意味はなく、むしろ、ひとつひとつの問題を、クリアしていく方がいいということです。実際に日本国憲法成立以降の歴史とはいかなるものだったのかというと、まさに様々な問題の一つ一つを各個撃破してきた実績であるといえます。

 護憲派のかなりの部分には、「憲法典というテキストが現実を規定する」というフェティシズム的な発想があると思いますが、現在の改憲派のある種の部分にも、「別のテキストへ書き換えることで何かを変えよう」という同様の発想が見受けられます。

 私は、再三述べてきたように、憲法典を絶対に変えてはいけないとは思っていません。むしろ、プラクティスが蓄積してきて、実態として成り立ってきた時点で、その実態を再確認する作業としては必要かもしれません。逆に、何の実態もないところに突然ルールを書いたとしても、それは実現化しないということです。ある程度、実績があるものを再確認することによって、社会のルールとして固定化していくのものだと思います。ある具体的な問題について、かなり機が熟した時点で、「この問題について再確認しましょう」、「憲法典を見直しましょう」という話であれば、十分検討の対象になると考えています。これに対し、予備期間・実態が乏しい状態で、「憲法をつくろう、新しいルールをつくろう」とするのは、いささか早計ではと考えております。

  以上が私の憲法に関する総論で、各論として、憲法9条などについても自分なりの考えはありますが、それは別の機会にさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

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