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コメント

 江橋崇(法政大学 法学部 教授)

江橋です。第三部を始めます。
 本日コメントをお願いしている竹中さんは、講談社の『日本の憲法 国民主権の論点』のなかで、「障害者を納税者へ」、「チャレンジドを納税者へ」ということを主張されています。今日は、納税の義務を権利と考えたらどうかということをお話いただきいただこうと思っております。とてもお忙しい中を無理にお願いして時間を割いていただきました。まもなくお見えになりますが、この会場にご到着になるまで、私が議論をつなぎます。

 今回、市民立憲フォーラムにおける議論の中間報告を出そうというときに、いくつかの目玉、世の中を驚かすことのできる提言のポイントを考えました。その中の一つとして、憲法における国民としての三大義務を市民としての権利に置き換えてしまおう、ということを提案しました。日本国憲法には、教育を受ける義務、勤労の義務、納税の義務という三つの義務の規定がおかれています。これらをすべて権利にしてしまおうということです。これにはいろいろな理屈があるのですが、一番の基本は、憲法に義務を書くのは「ケチくさい」ということです。これは私の考えです。

 その理由は、次のように考えています。フランスでは、人権宣言です。アメリカでも、“Bill of Rights”、権利の章典です。イギリスも権利章典というものです。そういった立憲主義の先進国では、「権利及び義務」であるとか、権利のうしろに義務をつけて、「無料招待はしません。招待はしますが有料です」といったケチくさいことは書いていません。日本も日本国憲法ができて60年になろうとしているということで、ここですっきりと権利だけにしてはどうかという提案なのです。ヨーロッパでもダメな国はいくつかあります。たとえばイタリアで、イタリア憲法は、権利および義務となっています。市民の公義務意識が薄いといわれる国の憲法ですからおかしいですね。旧ソ連の憲法も同じで、「市民の義務」の強調は、共産党の強権的な支配を認めよと強要していたようなものです。それに影響をうけた中華人民共和国の考え方も、権利及び義務です。日本の憲法も権利及び義務で、韓国の憲法も日本の憲法を真似している気配があり、権利及び義務となっています。私は、いずれもケチくさいと思っています。ということで、一つめが、立憲主義の水準として、義務といったものはつけるべきではないというものです。

 二つめ。納税義務論の主張を聞いていると、憲法上の国民の義務というものが、いかにもはるか以前から、さも当然のように存在しているように見えますが、日本国憲法をつくるときの、GHQの原案は、第三章「市民の権利」でした。彼らは、アメリカ人なので、義務というものをつけるわけがない。つまり、日本国憲法の最初の原案には、義務なんかなかったのです。しかし、GHQ原案の作成よりも前に日本の内閣、憲法調査会というところがつくった憲法改正案は、明治憲法の伝統を受け継いで、権利及び義務となっています。日本の官僚は、GHQから日本国憲法の草案をもらったあとで、懸命にその三つの義務を突っ込んだわけです。

 はじめにうまくいったのは義務教育についてでした。子どもには教育を受ける権利があり、親には子どもに教育を受けさせる義務がある。これは政府が日本国憲法の草案として発表した段階で入っていました。

 その後、憲法草案の審議が衆議院でなされたときに、一つは明治憲法から兵役の義務をなくしたわけですが、それを惜しむ人々が、兵役の義務をなくすかわりに、公務につく義務を与えろということになりました。それはおかしいのではないかということで、もう少ししぼって勤労の義務ということになりました。労働ではなく勤労の義務です。勤労というのは、辞書で引くと、公のために仕事をすることです。自分のため、自分の家族のためになにかをするという労働ではなく、国家全体のために自分が身をささげる、尽くすというのが勤労という言葉の意味するところです。まさに、兵役の義務をなくしたかわりにいれるのは、労働ではおかしいので、当時の保守的な人々が入れたのは、勤労の義務でした。そのきっかけは憲法草案の中に労働の権利の条文があったからです。それを、労働から勤労に変えて、さらに後ろに義務をくっつければいい。こうすることで、労働の権利性が希薄になるし、また、いざというときには公務としての勤労を、兵役以外の形でなら行う義務も認められました。内務省の労働官僚もなかなか頭が良かったわけです。

 GHQ案にも、政府の草案にも全然なかったのは納税の義務についての条文です。権利章典には、義務など書くはずがないのですが、衆議院の段階で、誰かが突然、納税の義務は当然のことだと言い立てて、憲法第三十条、納税の義務ということになりました。市民立憲フォーラムのホームページにある掲示板で議論になっていますが、納税の義務は憲法第二九条の財産権の補償と第三一条の法定手続きの保障の間の第三十条という場所に入っていることをどう考えているのかということが言われることがあります。この意見の趣旨はおそらく、財産権を一部制限し、かつ法律に基づいて納税することでもあるし、法治主義、デュープロセス、法の適正手続き保障の各論ということでもあります。ちょうど良いところに収まっている。こういった義務論の崇高な思想が分からないのかというものです。これに対する答えは簡単で、憲法第三十条を提案した議員は、一体どう言ったのでしょうか。「どこでも良いから入れてくれ」と言ったのです。帝国議会の議事録にはそう残っています。どうも崇高な理念に基づいている義務というわけではなさそうです。

 そういうことで、どうも日本国憲法の三大義務というものは、制定経過をよく見るとインスタントであやしく、かつ立憲主義の観点から見ると人権思想の展開としてはケチくさい、と思えるわけです。

 そこで、教育を受けさせる権利については、戦後、障害児をもった親は、まず子どもが6歳になると、通学するための健康診断を受けなくてもお許しくださいという猶予願いを教育委員会宛に出させられます。続いて入学時になると、自分たちの子どもを学校に通わせられませんのでお許しくださいと、教育委員会宛に就学猶予願、就学免除願を出させられる。親には国家に対して子どもを教育させる義務があるわけです。あるいは、義務教育でも関連費用の納入が必要で、それができないと、子どもは学校で、上級生のお古の教科書を使わされるし、給食の時間には一人校庭に出てお腹をすかせながらその時間帯を過ごさなければならない。遠足は病欠扱いになる。義務論にはこういった懲罰的、差別的な秩序付けの機能が強く現れてきてしまいますから、さすがに実務的にも徐々に改められました。この教育にかかわる義務論の不当性については比較的分かっていただきやすいと思います。

 次に、勤労の義務については、ここから出てくるのは、勤労感謝の日と勤労奉仕と勤労動員であって、憲法上は一応勤労の権利とも書いてあるのですが、勤労という言葉とつながると権利性が希薄になります。これを単純に労働の権利と言い切れば、労働条件、労働争議といったもっと自分や家族のために頑張る労働というニュアンスが出てくるので、こちらの方がいいでしょう。このことも理解は容易です。

 三つ目の納税の義務についてだけ、妙な反発があります。納税義務論派が頑張って反対しています。私としては、第三十条の納税の義務を納税の権利としたら、国家あるいは政府と市民の関係において、こんなイメージがつくれる、と提案しました。他方、納税の義務論のままではこんなイメージでしかない、とも指摘しています。さて、どちらのイメージの方がいいですかという問いをしているわけです。 しかし、わたしたちの報告書が納税の権利といった瞬間に、そこで広がるイメージを考えようともしないで、権利説についての論理的な穴を指摘しようとする批判のメールが来ました。掲示板では、「納税の権利と書き換えた瞬間に皆が税金を払わなくなる。税金を払わなくても良いのか。国家が崩壊するではないか」という意見もありました。

 これっていったい何なのでしょうか。国家に代わって、国家を擁護しています。七百兆円もの借金をこしらえて、財政危機から崩壊しかねない日本という国家とはまるで別に、政府の財政が健全で、市民がみな自分の義務をわきまえて納税している社会があるかのような議論です。納税権利説はこういう美しい国家を破壊するという議論でもあります。 これについては、いくつか反論しています。納税の義務がある現在でも、税金を払っていない人がたくさんいます。家族の生活費まで政治資金と称して所得税を払わない政治家がいます。相続税逃れで虚偽申告をしている人が多く、その中には、元世界一の金持ち、堤義明もいます。丸抱えで選挙を世話してもらっていて政治資金規正法違反、公選法違反もひどいし、年金も払わずに肩代わりさせて、国会で問題になったら人生いろいろと言って済ませている首相もいます。納税義務論だって市民は滞納し、脱税している人はたくさんいるのです。

 納税権利論を批判する人は、納税権利説になると国家が滅びるといいますが、国民が税金を払わずに滅んだ国家はないと思います。インドのタージマハールといった、国家財政を無視した壮大なる公共事業をやったために潰れた国家はあります。役人が食いつぶした国家もある。戦争をして、財政危機で軍事力が弱まって外国に占領されて滅んだ国もあります。日本においても、公共事業や公務員の無駄遣いといったもので潰れることはあっても、税金を払わなくなって潰れることはないように思います。つまり税金を払わなくなったら国家が潰れるという主張は、何らかの特別な事情の存在を説明しないと説得力がない、空中楼閣のような論理なのです。

 私としては、市民が自分たちの納税の権利を持ち寄って政府の財政的な基礎をつくるのだと考えていきたいと思っています。スウェーデンのパルメ首相が1960年代に英断し、これまでの世帯別納税制を、個人別納税制にしたことによって、新たに納税の権利を付与された女性の社会進出・社会参画が一気に進み、社会も安定的に発展できたということも一つ頭にありました。そういったことで、納税は権利だと訴えることにしました。

 竹中さんには、このあたりについて、あるいはわたしたちの憲法討論の中間報告で示したことに対してのお考えや、それを超えての憲法と社会のあり方などについてお話いただければと思っております。まさに障害者就労支援の分野でばりばりと活躍されていますので、思うがままにお話いただければと思っております。


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