第1部 記念スピーチ「市民が法をつくること」

松下圭一(法政大学)

 本日は、市民立法機構の発足を皆様方とともに喜びたいと、本当に心から私も思っております。といいますのは、私事にわたって恐縮ですが、今からほぼ30年前に考えはじめ、1973年に「市民参加と法学的思考」という論文を書きました。その頃は、法学者も松下ショックといわれているほどビックリしたのですが、その後、市民立法問題に法学者は理論としてはほとんど取り組んでおりません。最近ようやく法学も少しずつ変わりつつありますが、この市民立法機構ができたことを、私の30年来の夢が実現したという意味において、私自身非常に喜んでおります。しかし、どう考えてみても30年という時間は長い時間です。本当に一世代といいますか、私もいわゆる高齢層になってしまいました。

 ただいま浅野一郎さん、田中秀征さんから、国会中枢、それから政治実態について問題を赤裸々にお話いただきましたが、ついで、問題をどう今後考えていくかです。日本が都市型社会にはいる1960年代以降、市民活動が自立し始めて以来、政治が底辺から大きく変わりはじめました。事実、1960年代からの市民活動を背景として、多様に自治体レベルで自治立法がはじまってきました。それまでの国法は、まだ農村型社会モデルでしたから、時代錯誤で役に立たない国法が多かった。そのとき都市の革新自治体をはじめとして、先駆自治体は独自の政策ないし立法を条例あるいは要綱、協定などの形でおしすすめ、国法を変えてきたわけです。また、国法の自治解釈・自治運用もはじめるようになります。それから、市民活動は国レベルでの国法改革にもとりくんできました。ついで、国際機構レベルでも、市民活動は国境をこえて日常的に活躍しています。国連をはじめ多様な国際立法準備関係の会議が行われると、必ずNGOの会議が同時に行われて、大きな影響力を与えるようになりました。こうして、立法過程が少しずつ変わってきました。この流れを、市民立法機構であらためて集約し、これから一段と方法的にあるいは理論的に、飛躍させるという考え方を、私たちは持ちたいと思います。1990年代の今日では、情報公開・行政手続、またオンブズマン・住民投票も現実の日程にのぼっています。

 こういう意味で、1960年代以来、確かに日本の政策・制度ないし法制を変えていますが、日本の近代以来の伝統のなかにも市民立法活動が試みられたということも忘れてはいけないと思います。明治憲法ができる前に、自由民権運動が憲法草案をつくったことを皆さんはご承知だと思いますし、新憲法ができる時に、高野岩三郎さんたちの憲法研究会の案が、ほぼ原案の骨組みになっています。アメリカが原案を押し付けたと言いますけれども、やはり高野岩三郎さんたちの憲法研究会の案を注目すべきだと思います。それからシビル・ミニマムを保障した憲法25条はGHQ案にはなかったわけで、そのときはまだ帝国議会でしたが、国会での憲法審議の折、憲法研究会と関係のあった人たちが入れたわけです。この25条があってはじめて、60年代以降の都市型社会における社会権の整備という課題に新憲法が対応できたのです。こういう市民立法活動の伝統があるということを、常に考えている必要があります。

 だが、日本ではひろく、立法とはいわゆる官僚の統治秘術だと考えられてきたのは事実です。ですから、市民などは立法ができるはずはない、立法は国会すらもできず、省庁が内閣法制局とともにおこなうという伝説ができあがっており、伝説だけでなく実態でもあるわけです。

 ここで注意したいのは、日本の大学における法学教育です。今日も、官僚とか、裁判官、弁護士などをめざす人々を養成する大学の法学教育が、「法律」つまり国法中心の講義をしており、「条約」など国際法にはとりくみますが、「条例」など自治体法は無視してきました。そのうえ、現在の国法は完璧であるかのごとく前提として、その解釈論を中心に教えてきました。立法論は素人芸だとされ、解釈論の緻密さを競っていたわけです。解釈を緻密にするよりも、国法を変えてしまった方が、時代の要請にはやく対応できるにもかかわらず、四苦八苦して解釈論で補ってきたわけです。法学者は頭が固いと言われるのも理由無きにしもあらず、と私は思っています。ですから、立法論をまったく教えなかった明治以来100年以上続いた大学の法学教育自体も変えなければ、立法への取り組みに立ち後れるという問題があることもご理解いただきたい。ようやくこういう問題意識を日本の法学者も持ち始めるところまではきました。

 また、日本では国法は天皇の法、国家の法という意味で、絶対無謬とみなされてきました。だから、条文を絶対無謬と考えて、その解釈の緻密さを競うのが日本の法学教育の実態でした。だが、この考え方も変えていかなければなりません。民法・刑法という「一般法」、また憲法という「基本法」を除けば、いわゆる行政法をはじめほとんどの法が「政策法」ですから、この政策法はたえず変える必要がある。

 そのうえ国法は、私がいつもお話するわけですが、第一に、全国画一ですから、多様な地域生活を反映した「地域個性」をいかす仕組にする必要があります。第二に、国法は所管省庁があって縦割りですから、生活人の市民としては「生活総合」をしなければなりません。第三に、時代の変化がはげしくなっていますが、国法はなかなか変わりませんし、新しい国法もなかなかできません。このため、行政は法の執行というとき、時代錯誤の法による行政をすることになるわけです。このため、たえざる「立法改革」が必要です。
この意味で、政策法としての国法は絶対化されるのではなく、常に変えなければならないプラグマティックな存在です。国法は市民生活にとって必要な市民のルールだから、プラグマテッィクにたえず変えていくという考え方が必要です。

 市民立法の課題は何かと考えますと、明治以来、絶対無謬と考えられた官治・集権型の既成法の体系を自治・分権型に変えていくということにあります。これまで官僚主導で、国家の秘術として立法技術を官僚が独占してきた。この立法技術に市民が習熟して自治・分権型に法システムを変えていくことになります。だが、この課題を官僚ないし省庁がやるはずがありません。それから、国会も立法には戦後50年たってもまだ未熟だという問題があります。とすれば、やはり市民がイニシアティブをとっていかなければならない。イニシアティブとるといいましても、明治以来の膨大な国法や判例の蓄積があるため、これを変えていくには、10年以上30年単位で考えなくてはなりません。しかし、やらざるを得ない。

 私は戦後独立したばかりの後発国はむしろ羨ましいと思います。スキマばかりともいわれますが、常に新しい法をつくっていけるからです。日本には明治以来の官治・集権型の古色蒼然とした膨大な国法の累積があり、これらを変えていかなくてはならないわけです。いわゆる後発の利益をもつ、アジアなどの後発国はこの点ではむしろ幸せです。日本は先発国として明治以来はじめたものですから、国法の改革という問題では、この点を特に考えておく必要があります。とにかく、まず第一歩を今日の会合から出発して、今までの法についての考え方を転換させ、市民が立法技術に習熟していく意味では、画期的な意味があります。

 ここで市民立法について、4点ほど論点を整理したいと思います。市民立法というと、必ず権威的法務官僚からそれは素人発想だという批判がでます。しかし、私たち市民は、生活において、あるいはそれぞれの多様な職業において、専門家です。官僚以上に、生活レベル、それから各自の職業のレベルでは専門家です。官僚の縦割り行政の狭い経験よりは、幅広い経験を持っているということで、市民立法というのは素人立法ではなく、現在の官僚立法の水準を越える高い水準をもちうることについて、自信を持つべきです。むしろ今日の官僚立法が、私は「行政の劣化」というのですが、今度の老人介護問題でも、摩訶不思議なものをつくって、老人介護をメニュー化し、結果として画一的にする原案をつくっているわけです。むしろ私たちの市民立法から出発してはじめて専門立法ができるという自信を持つことが第一点です。

 第二点は、市民立法とは、自治体法、国法、国際法をふくめて、まずは政策をつくるということから出発します。今日、地域規模から地球規模まで問題が多様にあふれているため、国法が対応できていません。国法からはみ出た問題が噴出しており、時代の変化も大変早いため、国法が追いつかない。先ほども申しましたように、国法は時代錯誤の法の累積となります。この新しい問題を解決するには、まず法制知識以上に政策を持たなければならない。市民の政策を法制化していくという考え方が必要です。私は立法を「政策法務」と呼ぶのはこのためです。立法とは、ただ法をつくることではなく、まず政策をつくることです。この政策を制度として法的整合性をもたせて定着させることが立法の問題だという点を二番目に指摘させていただきます。

 第三点は、今日では、市民活動のみならず、団体・企業も法務室をつくりはじめました。そうしないと、団体・企業も自治体条例や国際基準にも対応できないわけです。それから自治体も今日では政策法務をおしすすめる法務室をつくる準備を始めています。そうしますと、法務専門家は内閣法制局あるいは各省庁、あるいは国会の立法スタッフだけではなく、市民内部に法務専門家がこれから大量に蓄積されていきます。たとえば、弁護士もかつては例外でしたが、国会への進出だけでなく、最近ではようやく変わり始めました。市民オンブズマンという形で、市民活動として弁護士活動を変えつつあります。それから「〜110番」という形で弁護士会が市民から色々な問題点を集約しています。これをいかに立法改正にむすびつけるかまでは、弁護士さんも進んでいないとしても、市民の内部にも弁護士を含めて法務専門家がこれから多様に出てくるという意味で、市民立法は必然となるという見通しをもつ必要があります。

 四番目の論点は、自治体、国、国際機構の各政府レベルで、いわゆる立法提案をするとしても、私たち市民活動では、まずは、いわゆる枠組み立法の構想・提案から出発することになります。国レベルでいえば国会での議員立法について省庁関係の出向スタッフが細かい法案にせよというわけですが、その必要はなく、まず大枠法をつくればよいわけです。今日の『地方分権推進法』も地方分権法として国会がまず大枠をつくって、関連の個別法は内閣ないし各省庁から出させるという仕組みをつくればよかったのです。法技術問題や既成法との整合性をどうつくるかということは個別立法として省庁にやらせて、市民立法としては議員立法ないし国会立法での大枠法でやっていくというシクミを常識として定着させることが必要です。ただし省庁提出の個別立法につきましても、当然、国会で審議をし、もちろん修正があるわけです。さらに私が重要だと思うのは、やはり政令、省令についても、事後の審査を国会がすることが重要な論点です。こういう三段構えで考えたいと思います。

 いいなおせば、内閣法制局をふくめて、完璧な立法はありえないとわりきっていただきたい。法はたえず党派の妥協の産物です。ですから、市民立法で細かいところまでの論議はつめますが、精密な法案をつくること自体を目的とせず、大枠法で国会・内閣ついで省庁の発想を転換させる。その発想の転換の中で、各省庁の個別法や政令・省令を変えていくという考え方をもつ必要があります。

 1990年代から2000年代にかけては、政治・行政改革の時代で、昨1996年の総選挙でも各政党が一斉に政治・行政改革をとなえて、橋本内閣も一歩踏みださざるをえなくなっています。この転換期において、政治・行政改革は、結局、立法改革として制度的に定着していきます。政治・行政改革も立法そのもののシクミを変えていくという考え方も必要となります。

 最後に、立法とは、いわゆる官僚が市民を統治する技術ではありません。いわゆる「国家」の建設の時点では、官治・集権型で、国の近代化の枠組みをつくる必要がありましたが、現在の日本のように近代化が成熟した都市型社会においての立法とは、市民間のルールをつくることを意味します。法は、従来のような官僚の統治技術ではなく、市民間のルールを意味します。

 私が武蔵野市に住んでいたおり、緑化市民委員会の初代委員長を務めましたが、1970年代のはじめ、「緑化市民憲章」案を市民参加方式でつくりました。これは条例としてもはやかったと思います。当時の自治体の市民憲章は、「緑を大切にしましょう」とか、「市民は仲良くしましょう」というものでしたが、あれは結局、「一つ軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」という軍人勅諭を書き直しただけのものです。「一つ市民は緑を大切にすべし」を、「緑を大切にしましょう」と言い直しただけです。ほとんどの自治体の市民憲章は、そういう構造になっていましたが、これでは困ります。

 武蔵野市の緑化市民憲章は、第一に市民は緑化のためにこういうことをする、とまず市民の責任範囲でできること、市民自治で決めることをふまえて、それに対応して、政府としての市役所はどういう緑化政策をその課題として展開していくべきであるか、というかたちをとっています。

 市民立法は、統治技術でないことは当然ですが、市民間のルールをつくるというとりくみ方が必要と思います。ここをふまえておかないと、今のNPO法問題でも議論されているように、政府による市民活動の選別という問題がでてきてしまいます。市民間のルールを市民自身が、市民自治という観点でつくるという意味で、はじめて市民立法となります。

 明治以来の日本の法概念は、結局、市民を法という檻に入れることだと考えてきました。だから、いかに脱法するかとか、いかにごまかすかという形になるわけです。自治体、国、国際機構の各政府レベルをふくめて、法は、市民ないし市民の代表である議会が政府・行政機構を檻に入れる。これが法の本来の意味です。古典的な意味において、「法の支配」とはそういう意味を持っています。法そのものの考え方を、今日では、このように転換しなくてはならないということを、ぜひ踏まえたいと思います。政府ならびに行政機構を法という檻に入れることが、市民立法の課題です。今日の政治・行政改革も、市民立法による、議会ないし国会から発議する立法改革なくして完成しないと考えるべきでしょう。

 本日は市民立法機構がそのための画期的な第一歩を踏み出すという意味において、しかも今後このような市民立法にとりくむ市民活動がたくさん出発することを期待しまして、私の問題提起を終わらせていただきます。ありがとうございました。

(司会)どうもありがとうございました。最初に、30年ぐらいかかると言われまして、ぼくは多分、生きていないでしょうから、もっと若い人に運営委員に入ってもらった方がいいと思います。

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