市民と議員の条例づくり交流会議

◆全体会:第ニ部「変える、変わる、変えられる―自治法改正の評価と今後の議会改革」

■コーディネーター:辻山幸宣(地方自治総合研究所)

 それでは午後の部の始めに、分権時代というたいへんな時代を演出された方である、大森彌先生から基調報告をお願いいたします。

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基調報告「自治法改正の評価と今後の議会改革」

大森 彌 (東京大学名誉教授)
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■議会は危機に立たされている

 今日は、これほどまで多くの議員の方々がお集まりになったことに感激しています。議員さんもついに勉強するようになった、改革に乗り出すようになった、日本の地方自治もこれから良くなる、そう思っております。

 さて、なぜ分権と地方議会とが結びついて考えられるのでしょうか。分権改革で廃止された機関委任事務とは、そもそも議会を排除するしくみであり、その反射として首長を使うしくみでした。したがって従来の体制とは、集権体制であると同時に、議会そのものを排除するしくみのなかで営まれてきたということです。それが、機関委任事務の廃止とともに直った。直ったとたん、これまで排除されてきた議会のあり方が問われるのは至極当然のことです。つまり別な言い方をすれば、従来の体制に眠り込んできた議会は危機に立たされている。危機を感じなければ、そもそも議会などいらなくなるということだと思います。

 今日に至るまで、分権改革にはさまざまな宿題が残っています。たとえば、先ほど栗山町から、議会の議決事項を増やしていくという話しがありましたが、そこでの議決事項の性質がどういうものかと言えば、あれはすべて行政計画です。各省庁が個別法を制定し、市町村等に計画づくりを義務付ける場合は、議会の議決を要さない。だからこそ行政計画はたくさんあり、議会を脇に置いたまま運営してきているのです。首長の方で用意された計画は、議会に対してはほとんど報告のみ。しかも重要な政策領域に関わる計画はほぼ住民参加でつくられるため、事後報告を受けた議会がそれに対していったい何が言えるでしょうか。栗山町は、それをせめて議決事項にすることによって、詳しく問い質していこうとお考えになった。今村先生が強調されたように、そこをどう使うかは、従来の集権体制を打ち破る上で非常に重要なテーマです。栗山町議会基本条例には、従来の分権体制を克服していこうという意思があるのではないかと私は考えています。


■執行部優位の二元的代表制

 二元的代表制を言い始めたのは、おそらく北海学園大学の神原勝さんが最初です。すでに十数年前の大学センター試験にも出され、高等学校の公民でも教えられているはずなので、すでに定着したものとは思っておりますが、あにはからんや、首長も議員も二元的代表制など聞いたこともないと言う人がまだ多数でしょう。したがって二元的代表制とは、「二元代表制を前提とする」との今村先生の発言とは異なり、「実現されるべきもの」だと私は考えています。

 ただし、明治以来、圧倒的に執行部優位の体制であるという点については、私と今村さんの認識は一致しています。「執行部優位の」と形容詞のついた二元的代表制の改革を本格的に考えるならば、その道筋の一つに首長公選制の廃止、つまり議長が首長となり、議員が行政を直接コントロールするしくみをつくる議会制の道は、明白にあり得ると私も思っています。しかし、もうしばらくはこの二元的代表制の枠組のなかで、改革できることを改革すべきだ。その上でなおかつ、新しい政治の形態を住民が選択するという道があり得るだろうと考えています。

 実はこのところ私は、議会を少々活性化、強化したところで、日本には地域のデモクラシーは実現しないのではないかと思い始めています。ガンなのは首長公選制ではないか。しかし、これを大合唱した途端に軽薄な学者が集まったとなると困るので、もう少し地に足ついた議論をすべきでないかと思っています。

 第28次地方制度調査会では地方議会のあり方が取り上げられました。総務省の役人が、これをどれほど熱心に進めるかは分かりませんが、地方議会を取り上げざるを得ない時代になったことは明白であり、どんなささやかなことでもその充実・強化を実現させることが、いまは一番重要だと思っています。それにしても、なぜ国が議会改革に熱心でないかと言えば、圧倒的に首長優位の体制だからです。国の役人が身分切り替えで都道府県・政令市等に出向する場合、そのすべてが執行機関に行き、議会事務局にはだれも来ません。議会対策で苦労した彼らが本庁に戻ったときに、自ら議会を強化しようなどと動機が働くはずがないのです。にもかかわらず、地制調答申はすべて総務省の役人が書いている。彼らが地方議会について、直すべきところは直していいと思い始めているわけです。やはり時代は大きく転換し始めたのでしょう。

 今回の改革に対する働きかけは、私ども地方三団体(都道府県議会議長会、市議会議長会、町村議会議長会)が一致して行いました。その相当部分はまだ手つかずとはいえ、一歩前進と言うべきでしょう。議会制度改革を加速化させるべく、もっとがんばれというべきではないかと考えています。


■地方自治法改正の評価点

 今回の議会に関する自治法改正で大きかったのは、委員会制度を直したことです。これまで常任委員会は、一人の議員につき一つしか入れなかった。そうしたばかげた規制が廃止され、「少なくとも一」、つまり委員会に複数参加しても良くなりました。

 それから、議長はいままで、閉会中に委員会委員の選任ができませんでした。これも私どもは法律上の欠陥であるとして押し込み、認められました。また、議案提出権はこれまで首長と議員の一部(一定数)にしか認められていなかったのが、今回、常任委員会の議案提出権を認めたことで、新たな発案を委員会から出していけるようになったのは、大変重要だと思います。本会議中心主義でいくのか、委員会を使うのかといった運用上の問題については、各議会でお決めになればいいと思います。

 それから、従来、会議体である議会には審議会は置けないと解釈され、議会もそう思い込んできました。それにちかい通達もあったように聞いています。分権改革の後は、そんな解釈は反故になっていると思います。議会に審議会を置けないなどということはない、したがって法律上、議会に審議会を置けると明確に書くことが私どもの主張であったわけですが、ここはすこしいなされて、専門的知見の活用ということになりました。しかし法律上は「学識経験者」でなく「学識経験を有する者等」と書いてあるわけですから、公募市民も含むと読むことはできる。こういうのは使わなければ意味がありません。審議会は置けますので、どんどんやってください。

 自治法改正で、古くさい文言も二つほど改まりました。一つは「傍聴人の取締」が「会議の傍聴」に改まった。「取締」などと言うと傍聴人はほとんど犯罪者扱いですが、これがやっとおかしいと認められた。もう一つは議会事務局の役割が「議会の庶務を掌理する」つまり、使い走りであると書いてあったのが、「議会に関する事務に従事する」と変えられた。この「事務」のなかには、分権時代の新たな議会活動を全力あげて補佐することが入ります。ということは、議会事務局の意識改革、能力開発も進まざるを得ないわけです。今日は議会事務局の職員があまりいらっしゃらないが、議会事務局の職員は議会の活性化をあまり願っていないように思えます。それには理由があって、執行部優位の体制の中、議会に派遣された事務局職員があまり張り切りすぎると、もといた部署に戻れなくなる。議会事務局とねんごろになった職員がなんとなく政治くさくなるのは、従来の庶務的な活動をやるためです。調査にいけば、議員に便宜を図ることばかりやっている。あんなものは議員自らがやるべきで、このように持ち上げられるから自分は偉い、職員を鼻先で使おうとする議員が出てくる。今回、「庶務」から「事務」へと変わったことで、議会事務局の職員もまた、自らがどうあるべきかを考えるようになるものと思います。


■企画立案と招集権とは表裏一体

 さて、私は議会改革の核心は二つあると思っています。その一つが、議長の招集権です。二元的代表制とは言うものの、圧倒的多数の職員は首長補佐についており、それを執行機関と呼んでいる。一方の議会を議決機関と呼ぶ。この言い方ですっぽり抜け落ち、なおかつ誰もがそう信じて疑わないのは、執行機関が執行すべき事案の企画立案は、すべて執行機関がやるものだという考え方です。

 私どもは、議会の招集権を議長が持つことは当たり前だということを強調してきました。議会は首長に選ばれたわけではなく、住民によって選ばれたわけだから、その招集権を議長が持つのは当然なのですが、地制調答申は、議長に臨時議会の招集権を持たせるからそれでなんとか引き下がれという内容だった。その理由とは、議決事件の大部分は首長が提案しているのだから、議会の招集権は首長が維持するべきだというものでしたが、こんなのはもはや理由にはならない。議会がおちょくられているのです。招集権を議長に持たせろと言ってはいるが、議会など自ら企画を打ち出していないではないか、すべて首長に任せているではないか、という意味です。議員の皆さんは、このことをぜひ反省していただきたい。

 考えてみるとわが国の執行機関は、自らが執行する議案をすべて自ら企画立案している。世間ではこれを「お手盛り」と呼ぶのです。自分たちに不都合なこと、自分たちがやりたくないことを企画立案などするはずがない。だから国が首長を使う集権体制と、首長がもっぱら企画立案する体制とが合っているのです。議員はそれを見抜けないでいる。では議員は何をやっているのか。首長から来る提案の説明を受け、質疑と称して若干の質問をし、討論と称して勝手なことを言い、ほとんどのものを通過させているのです。こんなものは単なる追認機関であり、議会とは言えないと私は思います。議決すべき議案を自らつくらない人が、どうしてそれを審査できるのか、それに基づく執行をどうして監視できるのか。皆さんは監視機能を果たしているとおっしゃるが、私はそうは思わない。つまり、議会はほとんど仕事をしていない。住民もそう思っているはずです。

 私の連れ合いは地域で女性の議員を生み出した経験がありますが、皆だめになってしまいました。最近は口もきつくなり、「『こんな議会はいらない』とあなたの口からも言いなさい」と言われています。誰よりも議会を大事に思い、議員との付き合いを大事にした市民がそう思い始めている。

 現在の議会は、憲法法律上設置しなければいけないために設置している議会になりはててしまった。ところが、それではいけないと気付きはじめた議員、議会が出てきた。栗山町がその先頭を切り、まもなく三重県でも議会基本条例がつくられる。都道府県すらこのままではいけないと考えているのだから、皆さんも自ら議決すべき事案の企画立案に乗り出してください。反問権などという前に、立案がどのくらい大変か経験してみてください。皆さんは首長に批判的だが、条例一本つくるにも、予算編成一つにも、大変な苦労がある。それなのに、首長がしてきたことを皆さんはいとも簡単に批判する。人を批判する前に、自らつくって見ればいい。それをすることが本来の議会の役割です。自治体の行方について重要な政策、条例については、議会自らがつくり出す。自治基本条例はすべて議会でつくる。基本構想と基本計画は行政運営の指針です。それをなぜ首長が自らつくるのか。本来、議会がきちっとつくらなければならないのです。

 では基本構想策定の現実はどうなっているか。首長がつくる審議会に議員が入り、住民を無視してどんどんしゃべる、そして議会に戻ってもそれについて何ら責任を果たさない。あんな議員は審議会に出てこない方がいい、と私は思います。議決事項を増やすことも大事ですが、自らが企画立案に乗り出さない限り、私はそうした議会を認められません。


■議員の法的な位置づけを改める

 もう一つの議会改革の核心となるのが、議員の新たな位置づけです。今回、都道府県議会議長会で行った議会制度の改革提言のうち、最も都道府県議員に人気のあったテーマは、定数と活動と報酬を一貫して説明できるよう制度を改めていくというものでした。自分たちはいったいどういう職業人であるのか、人数はいまのままでいいのか、そして全体の手当をどう説明すればいいのか、議員は悩んでいる。

 今回の栗山町の条例で最も優れているものの一つは、定数と報酬について、公聴会参考人制度を活用すると書いてある点です。住民参画あるいは専門家参画のこの制度は、これまでまったく使われてこなかった。なぜかと言えば、議員自ら企画立案をしてこなかったために、参考人も公聴会も必要なかったからです。あの制度を生かす道は簡単で、議会自らが発案すればいい。広く意見を聞くためには、住民を呼んで公聴会を開かねばならない。そうすればあの制度は生きるわけです。栗山町が、従来の制度を上手くつかいこなそうとしている点は評価できると思います。

 さて、どこまで定数を減らせば住民が納得するのかについて、議員の皆さんは悩んでいるとは言いますが、住民参加で決めないことには住民が納得するはずはありません。さらに、政務調査費に始まり、公金の使い方についていろいろ言われるのも悩みだという。議員はそれなりに自分が一所懸命やっていると思っているし、議会にも結構まじめに出ています。市議会の議会日数平均は77日ですが、それ以外にも議員は幅広く議会活動を行っている。そうした、議会を全体として生き生きさせるための活動について、これは公務なのかそうでないのか、何のために政務調査費が交付されるのかについては、どこにも説明の根拠がない。しかも、ある程度規模が大きくなると、政党および会派ができてくる。会派の概念は法律上、政務調査費にしか関係しません。しかし会派の調整無しでは議会の意思決定ができない。となると、議員の活動の性質とはいったい何なのでしょうか。そうした活動に、なぜいまのような高い報酬を払うのかは、どうしても説明できません。都道府県議会議長会ではこのことについて、新たな制度設計をしたいと考えています。良いアイディアがあれば、皆さんからもぜひ出していただきたいと思います。


■対価に見合わない議員活動

 私たちのアイディアの一つは、地方自治法上、「公選職」という新たなカテゴリーを設けるというものです。それに対する地制調の回答は、「『公選職』にどのような法的効果を持たせるのか、政治活動と公務の関係をどのように考えるのか、などの論点があり、引き続き検討する必要がある」というものでしたが、おそらく検討などしないでしょうから、押し込まなければだめだと思っています。

 特別職である議員が非常勤職であると決めるのは間違いです。地方自治法203条は、「普通地方公共団体は、その議会の議員、(略)その他普通地方公共団体の非常勤の職員(略)に対し、報酬を支給しなければならない」と定めています。「報酬」は、常勤職員の給与とは異なりますから、報酬の支給対象となる議会議員は、当然、非常勤職であると思われるでしょう。ところが、総務省の解釈はそうではない。規定の末尾の「その他普通地方公共団体の非常勤の職員」の「その他」の後ろに「の」が無い。したがって、議会の議員を非常勤職員と解する必要はない。ゆえに公選職という新たな概念を設ける必要はない、こう言っているのです。これが内閣法制局的法律のつくり方なのです。ということはこの203条は、非常勤か常勤かを決める条文ではなく、単に、報酬を支払わねばならないことを規定した条文なのです。

 しかし報酬とは通常、生活給ではない。したがって報酬を支給される議員は常勤職とは違う、すなわち非常勤かなと思うわけですが、実はそうではない。議員には月額支給の報酬が定められている。普通、月々の手当をもらえるならば、それはすなわち給与です。常勤以外には支払われない。したがって、これを非常勤識とするのは住民の感覚からずれている。

 非常勤職員に対しては通常、勤務日程に応じて報酬が支給されます。では議員の勤務日数をどこでカウントするのか。77日の議会日数で月額報酬の総額を割れば、こんな職業ほかにあるのか、というくらいばか高い日給になる。月額支給になっている報酬が、いったい議員のどういう公務に対する対価なのかについては、ほとんど説明できていない。

 さらに説明できないのは、地方議会の議員は、国家議員や自治体常勤職員との兼職は禁じられてはいますが、常勤職のような職務専念義務はありません。しかも、別途生活を維持するための職業をもっても良いことになっている。これはどう見ても常勤とは言えないが、常勤でない人になぜ月額報酬が支払われるのか。おそらく国会議員に倣ったというところでしょう。ますます分からないのは、もし非常勤だとすれば期末手当が出るなどということはあり得ない、理解できない、法律がおかしいんじゃないかということになる。長い間、国会議員との関係で一貫した説明ができなかったにもかかわらず、そのつど政治配慮で決めてきたことに対し、市民レベルで検討したとたんに、なんだこれは、ということになるわけです。

 さらに、職務に要する費用弁償ができることになっていますが、たとえば市議会に1回来るごとに1万円が支給される。あれは交通費だとはとても思えません。高すぎます。では何かといえば、1回ごとの実働に対する報酬なんです。この報酬と月額報酬とが、いったいどうかみ合っているのかということがよく分からない。月額報酬を出すのであれば、特別の実働に対する報酬を一回ごとに出す理由はどこにも見あたらない。私は廃止すべきだと言っています。交通費ならあり得る。合併後の自治体に遠方から議員が1時間かけてやってくるときに、ある程度の費用弁償をきちっと行うことはあり得ても、こんなことは説明できない。

 もっと分からないのは、国会議員の立法事務費をまねた政務調査費です。これは給付ではなく補助金でして、補助金とはすなわち公費です。では政務調査費の「政務調査」とは何なのか、その成果はどこに現れているのか、いったい何のために出しているのか。ほとんど企画立案をしていない議員に、なぜ政務調査費を出すのか。栗山町条例では、政策は自分たちでつくる、政策立案のために議員研修を行うと書くことで、ここをクリアしている。政務調査費の危ういところを、条例によってきちっと根拠付けようとされているわけです。でも普通に考えれば、そういうことをしていないのはおかしい。もっとおかしいのは、別途職業を持ちながら、通算12年議員をやれば、公費も入れた議員年金の受給ができることです。これだけの公費が出ながら議員の活動と整合性がとれていない、このことが最大の議会の問題点です。


■議員定数の根拠をどう考えるか

 私は、きちんとした活動にはきちんと対価を払うべきだと思っています。また、いまの調子で政務調査費の個々をすべて追及し、使途を事細かに縛るようなやり方は良くないと思っています。使途の情報公開は当然としても、議員の活動はどこかでおおらかに認めて良いが、本体としての議会の活動が充実して初めて、住民の納得も得られるのだと思うのです。

 結局、いままでの日本の地方議会は、どういう活動が本来の議会の活動なのか、そのために地域の議員が何人必要なのか、住民の納得できる報酬はどうあるべきか、この3点を一括して住民参加で決めたことが無い。みな、あの形式的な市町村議会で決めている。議会の具体的な根拠はすべて、総務省が出したものではないですか。一回だって、住民と一緒に決めたことなど無いんです。

 議会の頭数は多ければ良いというものではない。会議体としての力があれば、議員の数は少なければ少ないほどいい。ちなみに理論値は3です。3人以上に増やすならその根拠が必要だ。定数の上限にはもともと何の根拠もありません。おそらく栗山町も、18人を3人減らして15人にした根拠を聞かれると困るはずです。

 議会は、どこまで定数を減らせば住民の付託に応えられなくなるのかということを、各々検討すればいいと思います。議員定数が5人になれば、全面的に住民参画になるはずです。そのほうが、30人の議員よりはるかにいい議会を構成できるかも知れない。現行法を変えずともこうした改革はできる。議決権を持つ議員を減らしたからといって、理論上、議会の機能が低下するとは言えない。最近では、首長までが議会の定数を減らせと言いますが、しかしそれはよけいなことだ。執行権優位の体制であるにもかかわらず、ますますそれを固持しようというのはよくない発想だと私は思います。


■専決処分と事前通告制を改めよ
 

 議会改革の核心である議員の位置づけについての制度設計、そして今回直らなかった議長の招集権について、私どもは今後も持ち込んでいきたいと考えています。

 そしてもう一つ、これはわが国のデモクラシーに関わることですが、今回、専決処分のあり方についても提案しました。1時間でも2時間でも議会を招集できる暇がないなどとは、住民に説明できない。とくに、税関係の条例に関する専決処分は、禁止すべきです。これを議会にかけずに専決処分にするとは、ほとんど独裁に近い。日本の場合、首長が公選されているため、議会が相当がんばらないかぎり、放っておくと首長の独裁を許してしまうことになります。それをずっと認めてきたというのは、議会がだらしないからです。少なくとも住民に負担を迫るようなことを決定する場合は、絶対、条例主義でいくべきだ。議長に招集権を持たせれば、この問題が解決できるのは明白です。その責任を「国が年度末に法律を直すから暇がないのだ」とおっしゃるのだが、はたして本当にそうなのか。首長と議長はきちっと集まって、本当に暇がないかどうか協議すべきです。その程度のことはおやりになるべきだ。このように、議会がやらねばならないことは山ほどある。

 もう一つ、言いたいことがあります。事前質問通告制はただちに廃止してください。反問権を認めるならば、執行部に有利な事前質問通告制を廃止しなければだめだ。執行部は自分たちが企画立案したものを無修正で通したいために、議員が何を聞こうとしているのかを予め知りたいのです。しかしあれを廃止すると困る議員がいる。何を聞いていいかも分からない、質問に対する首長の答えが適切であるかどうかも分からない、まったくどうしようもない。結局のところ皆さんは、執行部有利の体質を維持しているのです。

 言葉は厳しいですが、これらは議員の皆さんへの激励です。以上見てきたように、執行部優位のアンバランスな体制の中で、議会のあり方に関する改革の一歩が進んだのだということが、今日、私が強調したかったことです。

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■辻山
 議会改革を担う議員とは何者かということが、これほど何度も問われたことはいままでありませんでした。お話を伺っていて自分が議員になった気分になり、頭が痛くなる思いがしましたが、これを越えていかなければ、住民の納得する議会改革にはならないのでしょう。

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